第26章 子どもの麻疹 | 追尋 — 鹿港から眷村への歳月
民国49年、金門島への出張を命じられた夫が出かけて行って三ヶ月も経たないうちに、私の妹(六女)が結婚するという知らせが入りました。
結婚式の招待状を受け取った私はとても嬉しくて、子どもたちを連れて彰化へ帰り、宴に参加する支度を始めました。
出発前日に李ママが私のところへ来て「準備はできた?一人で4人の子どもを連れて列車やバスに乗るんだから、気を付けてね」と言いました。
李ママは私とおしゃべりしながら、小さな椅子に座ったり、床に寝そべっている長女の蘭蘭を注意深く見つめていました。そして「いけない! この子は病気じゃないか? 顔が赤くて、発熱しているみたい」と言い、蘭蘭のおでこを触ると、服を脱がせました。ひどいことに、上半身の背中じゅうに真っ赤な発疹が出ていて、麻疹(ましん、訳注:はしかとも呼ばれる)のようです。
麻疹とは発熱から2、3日後に発疹が出るのではないのでしょうか、「一体どうしよう?」私は途方に暮れていました。
発熱し始めたばかりなのに発疹が出ています。
麻疹は感染する病気で、家には3人の子どもがいます。私は心の準備をしなければなりませんでした。
李ママの細やかさには本当に感謝しています。彼女のおかげで、早い段階で気付くことができました。さもなければ、状況が悪化していたかもしれません。実家に帰ってお祝いの席に参加できないことは残念でしたが、子どもの方が大事です。
現在は医学が進歩しているおかげで、新生児は生後数ヶ月で各種予防接種を受けることができます。麻疹もその一つです。今の若い方たちはなぜ麻疹と呼ばれているかご存じないかもしれませんが、昔は「豆麻關」と呼ばれ、感染して熱が引き、発疹が出て消えるまでに一ヶ月ほどを要しました。
最も深刻なのは感染した最初の一週間で、子どもは発熱します。
順調に行けば発疹は口内から全身に広がります。過度な発熱により、身体の一部が損傷しないよう、細心の看護が必要です。
麻疹の発熱が続き過ぎると、骨から膿が滲み出て慢性病になり、最後は潰瘍になった骨ごと切断しなければならなくなります。病気が治った後も、もとの美しい顔が変わってしまうことだって十分あり得ます。
私の友人は鼻筋に、澎湖の大家さんの娘さんは下あごに、3歳の頃にかかった麻疹の発熱で大きな傷が残ってしまいました。四川で生まれた夫の姉と弟も、幼い頃の麻疹で亡くなっています。
澎湖の大家さんの娘さんは生活が苦しかったため、整形手術を受けられず、一生後悔することになりました。しかも、彼女が3歳で発病した頃は、民国33年で戦争が最も激しかった時期で、皆毎日の警報から身を隠しており、医者を見つけられるような状況ではなかったのでした。
彼女はいつも皆に向かって「子どもに麻疹が出たら絶対に注意して看病してあげてね。私のようになってしまうと、一生後悔するよ」と話してくれました。
彼女の言葉を思い出し、私はさらに身構えました。
発熱を抑えるために伝統的な方法を使おうと、私は海辺へ行って「五根草」と「mm草根(台湾語)」を採ってきて煮出し、冬瓜を加えて飲ませました。
蘭蘭は1日に何度もこのお茶を飲み、解熱することができました。発疹もすべて引いてから、下痢にならないようにあっさりした食べ物を食べさせました。
蘭蘭の発疹が治ったタイミングで、次女の発熱が始まりました。私はすでに次男も感染するだろうという心算ができていました。ただ、私一人では発疹が出た子どもたちの面倒を見切れません。仕方なく楊村長に事情を説明し、助けを求めました。
親切な楊村長が部隊の上司に報告してくれたおかげで、夫は一週間の休みを取ることができました。隊長の許可が下りると、すぐに電報で離島で仕事をする夫に伝えました。夫は休暇の手続きを済ませ、飛行機が来るのを6日間も待って、やっと帰宅しました。
夫が帰ってきた頃には長女の発疹は収まり、次女は全身に発疹が出て、次男の発熱が始まったところでした。帰宅した夫の姿を見て私はほっとしました。麻疹は恐ろしい病気に見えますが、発熱し過ぎないよう注意して看護すれば、治すことができます。
私は長男もきょうだいたちと一緒に感染させて、まとめて世話をしたいと考えていたので、妹たちが食べたものを彼にも食べさせていましたが、彼はずっと元気でした。
今後も長男が麻疹にかかることはないでしょう。きっと彼の免疫が強過ぎたのでしょう。彼は60歳近くなった今まで、麻疹にかかったことはありません。