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第7章 結婚後のエピソード | 追尋 — 鹿港から眷村への歳月

訳者補足:オードリー・タンの父方の祖母、ツァイ・ヤーバオの自伝『追尋 — 鹿港から眷村への歳月』の第七章です。

 大家さんの家は、竹と土、石灰で作られていました。
屋根は太い竹で、間仕切りは木の板です。私と夫が暮らしていたのはリビングの後ろにある2坪の小部屋で、床の近くに小窓がありました。

 リビングの右側にある廊下は、後ろのドアに繋がっていました。
 私たちの部屋の隣にはおじいさんおばあさんの部屋があり、リビングの向かいが彼らの義理の娘と孫の部屋です。

 リビングを出て右側が竹でできたキッチンで、大家さんたちと共同で使っていました。大家さんは大きなコンロを持っていて、私たちはアルコールストーブで料理をしました。

 落ち着いた日々を過ごしていましたが、あることが私を悩ませていました。

 私は心配性なので、寝る時にはドアをロックしないと眠れなかったのです。夫が夜番から帰ってくるのは午前0時ごろで、ドアの前で私を呼んでも私が起きないので、いつも仕方なく大家さん家族を起こし、後ろのドアを開けてもらって家に入ってから、部屋のドアをノックしていました。
 どんなに呼んでも私がなかなか起きず、やっと起きた時にはすでに夜中の1時、ということがよくありました。

 夫は私を責めたりしませんでしたが、ただ、「部屋のドアはロックしなくていいよ。外にいるのはおばあさんたち家族なのだから、怖がらなくていい。そうでないと、毎回こんなふうに迷惑をかけて申し訳ないよ」と言いました。

 私は毎回「次はきっと気をつけよう」と自分に言い聞かせていましたが、残念なことに、毎回同じように起きることができず、大家さん一家を起こしてしまいます。

 私が起きてドアを開けると、皆が首を横に振りながら笑うので、とても恥ずかしい思いをしていました。

 自分の臆病さを恨み、焦っている時、叔父に相談することを思いつきました。すると叔父は「寝ている時に頭の上に窓があるんだろう? その窓の外には鉄の枠(※)が付いているよね?」と言い、私はうなずきました。「それはいい。彼が夜番の時、お前は縄を用意して、自分の手を縛り、縄を窓の外に置いておくんだ。彼が帰ってきて縄を引っ張ると、腕が痛くて起きるんじゃないか?」

 私はその通りだと思って、帰宅してすぐに夫にその話をしました。
 彼は笑っていましたが、その方法を受け入れてくれました。

 それ以降、夫が夜番の日に大家さん一家を起こすことはなくなりました。

 ある時、おじいさんとおばあさんから「最近、どうしてドアを開けなくて良くなったのか」と聞かれ、私はとても申し訳なく思いながら彼らにこのことを話し、「他の人に知られると笑われるので、どうか秘密にしておいてもらえるように」と頼んだのでした。

 それを聞いた大家さん一家は大笑い。私はとても恥ずかしく、穴があったらすぐにでも入りたかったです。


訳者補足

「窓の外に付いている鉄の枠」は、原文の台湾華語で「鐵窗ティエチュワン」と記載されています。

鐵窗ティエチュワン」は、今でも台湾の街を歩いているとよく見かけることができます。

窓の外に薄いブルーの「鐵窗ティエチュワン」が付けられているのが分かりますか?

鐵窗ティエチュワン」に関する著書があり、「鐵窗ティエチュワン」をモチーフにした雑貨のプロデュースをしている台湾人のユニット「老屋顏」を取材した時に教わった情報によると、

台湾で「鐵窗ティエチュワン」が流行したのはマイホームブームが起きた1960〜80年頃で、主に泥棒対策のために取り付けられたのだそう。

モチーフには各々の家の姓や家業にまつわるもの、縁起が良い鳥や蝶などが使われることも多く、なかには日本にゆかりのある富士山や桜などもあるのだそう。

「窓枠にはそれぞれの家の物語が詰まっている。失われつつあるけれど台湾の美しい文化です」という、「老屋顏」の楊さんの言葉にとても共感しました。

本作の作者のヤーバオさんが暮らされていた頃はおそらくもっと簡易的な鉄の窓枠だったと思いますが、台湾の「鐵窗ティエチュワン」文化、とてもおもしろいのでご興味があれば「老屋顏」のInstagramなどをのぞいてみてくださいね。

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近藤弥生子 | 台湾在住ノンフィクションライター
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