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子の話(四)「家族の宝」光義(三男)

訳者補足:作者ツァイ・ヤーバオの三男・光義による前書きです。

 民国89年、台湾の最北端の空軍眷村であった「老梅の銘德一村」が取り壊され、更地になってから、私たちは共通の思い出を失いました。今思い返してもとても悲しいです。

 幸いにも二番目の兄が民国97年(2008年)のリーマン・ショックの貴重な余暇時間にブログで「銘德一村的野孩子(訳注:銘德一村の野生児)」というタイトルで数十本の短文で私たちの子ども時代を生き生きと描き、今では散り散りになった老梅眷村出身の子どもたちを思い出で繋いでくれました。大きな海、砂浜、田舎道、田んぼ、大きな木、小川、井戸…どれも私たちにとっての楽園でした。そう、そうとしか形容できません。

作者ツァイ・ヤーバオの次男、光德によるブログ「銘德一村的野孩子』には、
今は取り壊されてしまった銘德一村の様子が記録されている。
(※筆者撮影、本書には収録されていません。)
作者ツァイ・ヤーバオの次男、光德によるブログ「銘德一村的野孩子』には、
次男、光德が自分の子どもたちを連れて富貴角エリアを訪れた時の様子が掲載されていた。
(※筆者撮影、本書には収録されていません。)

 その後、母は長男と次男の励ましを受け、思い切って筆を取り、自身の回顧録を一つひとつ書き始めました。二二八事件からまだそんなに時間が経っていない頃、本省人の娘が外省人の軍人に嫁ぐというのは決して容易なことではなかったので、ここからも両親の互いへの揺るぎない愛情が見てとれます。

さらにそのような困難な時代にあっても五人の子どもを設け、無償の愛で育ててくれた両親には感動させられます。一日三食の食事を用意するのが難しいような状況でも、彼らはどうにかして私たちに完璧な教育を与えようと努力してくれました。彼らのそうした姿こそ、私たちにとって何よりのお手本でした。

 私がこれまで経済的なプレッシャーを感じずに育ってこれたのは、両親や兄や姉が代わりになってくれたからかもしれません。私が進学や試験にプレッシャーを感じずにこれたのも、両親がトップ校へ進学することを要求しなかったからだと思います。すべてを自然の成り行きに任せ、何度も司法試験や弁護士の試験に落ちても、彼らは私を責めたりしませんでした。私はいつも自分が非常に幸運だと思っています。

 母の回顧録の行間からは、当時の生活こそ苦しいものの、彼女の心は満ち足りていたことが感じられます。経済的な困難や健康上の問題に直面しても、その都度、恩人たちの助けによって乗り越えることができました。本書は温かさと感謝の気持ちに満ちており、これこそが両親が人と接する際にいつも持ち合わせていたものなのでしょう。

 両親の人生は物質的には苦しかったかもしれませんが、心は豊かでした。

最も苦しかった頃、父が母によく「船が着くまで流れに任せる」「子どもや孫たちは、自分で自分を幸せにする力を持っている」と話しているのを聞いたことがあります。60年以上にわたり多くの困難を乗り越えた今、子どもや孫たちは幸せに暮らしています。

 母は私に説教をすることはありませんでしたし、父は口数が少ない人ですが、彼らは身をもって私たち五人きょうだいに深い影響を与えています。
たとえば、「人付き合い(真摯、善良、正直、義務を果たす)」、「生活態度(勤勉、足るを知る、感謝、楽観)」、「教育観(尊重、開放、民主)」といったこともそうです。実際には私たち五人の子どもだけでなく、11人いる孫たちにも、同じような影響を見てとることができます。これからもずっと受け継がれて行くことを願っています。

 子どもの頃、一つの小銭で二つの丸いキャンディを買ったり、誕生日の子どもは二つの煮卵でケーキの代わりにしたり(誕生日でない子どもは一つ)、春節の時に制服を新調したり…どれも私たちがとても楽しみにしていたことばかりで、何の不満もありませんでした。

 50代になった今、私には三人の子どもたちがいます。彼らには私たちのような楽しい子ども時代を経験することはないでしょうし、私の両親の苦しい日々を理解するのは更に難しいでしょう。

 それでも、母がストレートで分かりやすく、感謝に満ちた文章で当時の生活のすべてを描写してくれたおかげで、私の子どもたちは一つひとつの物語を楽しみにしながらページをめくっています。私が何百回も昔話をするよりずっと、子どもたちをそれぞれの物語の中に入っていくことができるのですから、母の筆致には敬服します! これこそが、最も良い「家族の宝物」です。

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近藤弥生子 | 台湾在住ノンフィクションライター
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