第21章 母子たちだけで暮らす僑愛新村 | 追尋 — 鹿港から眷村への歳月
トラックが僑愛新村に到着し、新居まで送り届けてもらった私たちは、期待で胸がいっぱいでした。
夫たちが管理室で鍵を受け取り、ドアを開けてみると、『台湾新生報』の報道にあった「和室のある家」とは全く違っていました。
少しがっかりしましたが、もう引っ越してきてしまったので仕方ありません。
部屋は3坪半しかなく、あとは一人しか入れない半坪のキッチンがありました。家の裏には水道があり、2棟20戸で2つの蛇口を共用します。トイレも共用で、ちょっと離れたところにありました。
家は甲乙の2種があり、子どもが3人以上いる家はちょっと間取りの広い部屋に入ることができたので、私たち9家族は二手に別れて暮らすことになりました。
暮らし始めはまだ落ち着きませんでしたが、眷村の最も奥にある雑貨店で日用品を買うことができたのと、野菜や肉・魚などは決まった時間になると小さなトラックが眷村の入り口まで売りに来たので、少しずつ慣れて行きました。
その後も、医務室や管理センター、美容院などができ、半年後にはアメリカから大豆、小麦粉、コーンフラワー、大豆油などの救援物資が台湾に届くようになりました。
眷村管理委員会の主任は上級の将校の中から派遣されてきた将官で、家族たちの生活をとても気にかけてくれました。ここで暮らす人々の夫は外で仕事をしており、皆が女手一つで子どもたちを育てていたからです。困りごとがあれば主任に相談できましたし、彼はいつも解決のために手伝ってくれました。
後に、管理委員会の中に母親たちによるボランティアチームができ、朝早くに豆から豆乳を作って無料で朝食に配ってくれるようになりました。朝6時過ぎになると受け取ることができたので、皆、鍋を持って受け取りに行きました。眷村には全部で600戸以上の人々が暮らしており、長い時間行列に並ばなければなりませんでした。
蒋介石夫人は三軍の家族たちの暮らしをとても気にかけてくださいました。聯合後勤司令部に所属する被服廠(ひふくしょう、訳注:軍服を製造する工場)が製造していた比較的簡単な三軍将士用の服と、パジャマを私たちが作るように指示し、私たちが少しでも稼げるよう取り計らってくれました。
家にミシンがあり、服を作ることができる者はエントリーすることができ、試験をクリアすれば仕事をもらうことができます。
服1セットの工賃は2元5角でした。シャツタイプのトップスは作りにくいものの、ズボンは比較的簡単でした。
私は日々の家事や子どもの世話をしながら、残った時間で作ったので仕事が遅く、頑張って一日7着が限界でした。
当時の私は3人目を身籠もっていて、娘もまだ一歳になって歩き始めたばかりでした。5歳になった長男は一人で遊ぶことができたので、少し安心でした。
他にも手芸用品の内職案件があったので、学習期間を経て、ほとんどの家庭が婦女連合会の手助けのもと、収入を増やして家計の足しにすることができるようになりました。
ある夏のことです。私が集中して服を作っていると、外から大勢の人たちの叫び声が聞こえてきました。川で溺れた子どもを救出している、どの家の子どもかは分かっていないとのことでした。私はすぐ長男が家にいないことを思い出し、皆が溺れているのが5、6歳の男児だと話しているのを聞いて、大慌てで娘を背負って川辺に長男を探しに行きました。
大きな声で長男の名前を呼びながら歩き回りました。辺りは多くの人々が私と同じように自分の子どもを探し、大騒ぎでした。
しばらく叫んでいると、人混みの中から長男が飛び出してきて、「ママ! 僕はここだよ」と言ったので、私は思わず泣きそうになりました。
娘を背中から下ろし、息子に「これからは川辺に行ってはいけないよ。もし何かあったら、お母さんはお父さんにどう説明したらいい? お母さんも心配でたまらないよ!」と言いました。
それ以来、息子は川辺には行かなくなり、時々妹の世話をして、私に仕事をさせてくれました。