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第5章 賑やかな結婚式 | 追尋 — 鹿港から眷村への歳月
訳者補足:オードリー・タンの父方の祖母、ツァイ・ヤーバオの自伝『追尋 — 鹿港から眷村への歳月』の第五章です。
民国39年8月14日の午前10時過ぎ、鹿港の頂番婆派出所の入口に新婦を迎える車が到着しました。この黒塗りの車は、熱心な彰化区の区長が貸してくださったものです。鹿港が所属する彰化は当時、まだ「県」ではなく「区」という行政区分でしたから、彰化区長は私たちが暮らす土地で最も偉い方でした。
社交的な支隊長は夫に100元以上(夫にとって、およそ一ヶ月の給与と福利金に相当します)を費やして8、9人ほどの鼓笛隊を雇わせ、支隊長自身はジープに乗って、お迎えの車の後を付いてきました。
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11時半頃、新婦が迎えの車に乗り込むと、鼓笛隊はラッパと太鼓を打ち鳴らし、陽気な音楽を奏でながら鹿港最大の中山路へと進みました。通り沿いで暮らす住人たちも表に出てきて、それはそれは賑やかで、まるで盛大なお参りのようでした。パレードの後は区役所のホールで結婚式の準備を始めました。
しかし、ここで問題が発生しました。結婚式の主催者である私の父が、式に参加しようとしなかったのです。父は、私たちが西洋式の結婚式を採用した事を知らず、「本省人の娘が嫁ぐのだから、自分が新郎側に連れて行く必要はない」と思っていたのでした。
家まで車で3回も迎えに行き、父を説得し、ついに式に参加してもらえることになった時、皆はようやく安心することができました。
式は12時過ぎにやっと始まりました。
立会人は鹿港鎮の陳培熙鎮長で、仲人は双方の長官、支隊長と支局長です。セレモニーはシンプルかつ華やかに、6つのテーブルとバンドによる結婚行進曲の演奏の祝福の中で執り行われました。
家族から強烈に反対され続けてきた結婚が、このように見たこともない賑やかな挙式を迎えることができるなど、当初はまったく想像していなかったことでした。
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![近藤弥生子 | 台湾在住ノンフィクションライター](https://assets.st-note.com/production/uploads/images/114623534/profile_875d5308de5d33ced5f2aa3e5feee29c.jpg?width=600&crop=1:1,smart)