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第13章 台南への引っ越し | 追尋 — 鹿港から眷村への歳月
訳者補足:オードリー・タンの父方の祖母、ツァイ・ヤーバオの自伝『追尋 — 鹿港から眷村への歳月』の第13章です。
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民国41年(訳注:1952年)6月、指導長がやって来て、村の皆に「台南にも眷房(訳注:軍人たちの家族用の宿舎)がある。引っ越したい人はいないか?」と尋ねました。
私は夫が出張先から家に帰って来た2回とも夜9時を過ぎていたことを思い出し、家族に会うためにあんなにたくさんの時間と労力を使うのは大変だと考え、台南の軍眷への引っ越しを願い出ました。
引っ越し先は、蒋介石夫人が台湾で初めて建てた眷房で(訳注:要確認)、皆はとても喜びました。ただ残念なことに、半分ほどの家しか引っ越しを希望しませんでした。午前中に引っ越しを決め、午後には出発です。私たち引っ越し組は家に帰って荷物をまとめました。
私は子どもを背負って家へ帰り、荷物をまとめました。陳支部隊長とその奥さんが手伝ってくれたおかげで、出発時間に間に合わせることができました。部隊は烏日駅から貨物車両を一両貸し切り、私たちの荷物を運び込み、その上に人が登り、大人も子どももぎゅうぎゅうに詰め込まれました。
列車は午後5時に出発し、途中何度か停車しながら、翌朝8時すぎに台南駅に到着しました。途中で彰化に長く停まっていたのは荷物の積み下ろしの関係だったと聞きました。
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ついに台南に着いたと皆は大喜びでしたが、ひとたび駅のホームへ降り立ちお互いの顔を見合うと、思わず大笑いが沸き起こりました。
「あなたの顔、灰で真っ黒じゃない!」「あなたもだよ!」
大勢でホームのお手洗いに行って鏡を見てみると、誰もが顔中灰だらけになっていたのです。どうしてこんなことになったのでしょう? 当時民国40年代の列車は、まだ石炭を燃やしていたからです。
続いて、軍隊のトラックが私たちを宿舎まで運んでくれました。一晩中の苦労を完全に忘れるほど、皆とてもワクワクしていました。
❖ ❖ ❖
喜び勇んで宿舎の前に着いた私たちでしたが、責任者が玄関前で「この家はまだ検収が終わっていないから入れませんよ。入居できるのはあと一週間です」と言うではありませんか。皆が呆然としました。
一体どうしたら良いのでしょう? 皆、子どもを抱えているのです。
どこに泊まれば良いのでしょうか。本当に困りました。
後から一人の軍官が飛んできて、とりあえず空き部屋に連れて行くから、そこで一週間過ごし、宿舎の検収が終わったら改めて入居してもらうと言いました。
その空き部屋に行ってみると、それは廃墟になったダンスホールで、ドアも窓も破れていました。皆は仕方なくござを敷いて地べたで眠り、玄関の外で食事を作り、難民のようにして一週間を過ごしました。一週間経った後でやっと、宿舎に入ることができました。
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![近藤弥生子 | 台湾在住ノンフィクションライター](https://assets.st-note.com/production/uploads/images/114623534/profile_875d5308de5d33ced5f2aa3e5feee29c.jpg?width=600&crop=1:1,smart)