子の話(三)「物語は語り継がれる」春芳(次女)
母の本がもうすぐ出来上がろうとしています。本当に喜ばしいことです。
母が原稿用紙に一字一句ゆっくりと紙に書き始めたのは二年以上前のことです。弟の光德は仕事帰りの休息時間を利用して、母が書いた文字をパソコンに入力してあげていました。パソコン入力はある程度の知識と技術が必要なので、母が困ることのないようにとの思いがあったのでしょう。
私たちは最も忠実な読者です。義理の姉(訳注:唐光華の妻でオードリー・タンの母、リー・ヤーチン)のフィードバックはいつも速くて温かく、母は家族の励ましが書き続けるための原動力になっていると話していました。
去年の八月、父の日を過ごした後に父が病気になり、ほぼ完成間近だった本の執筆作業も中断せざるを得ませんでしたが、母の看病によって父は順調に回復し、半年後にはこの本の仕上げ作業を再開することができました。
母が語った物語はすべて自身に起こった経験であり、音楽や色彩がある映画のように、とてもリアルで感動的です。
フルタイムで働くかたわら、私は二人の子どもの母親として、保護者会やボランティアなど、子どもたちの学校の活動にも積極的に参加してきました。今でも毎週決まった時間に近所の小学校へ手伝いに行っています。これも、「人の助けになりたい」という母の情熱を受け継いでのことです。
私自身が小さかった頃、小学校の林顯騰教務主任がとても熱心に学校のレクリエーションイベントを開催しており、それらに参加するほか、地域の文化的なコンテストにも毎年参加していました。
さらに眷村の子どもたちは慰労のために軍隊に行ってパフォーマンスをすることが多く、ステージに上がる楽しい機会がたくさんありました。小学校四年生の頃からリーダーになった王昭君などは、何年も踊り続けていたものです。
そんな時、いつも母は舞台裏で子どもたちにお化粧をしてあげたり、出演者たちに洋服や小道具を準備したりと大忙しでした。学校の保護者ボランティアたちにとって、まさにお手本だといえるのではないでしょうか。
兄がはじめて家を離れ、台北の高校に通うことになったのを心配した母は、台北に住むいとこに付き添いをお願いする手紙を書き、兄といとこの二人で先生のご自宅へご挨拶に行かせたのだそうです。先生はとても感心していたと聞きました。
高校で私の成績が明らかに落ちた時は、母はすべての用事を投げ出し、何度も電車を乗り換え、たくさんの交通費を費やしながら丸一日かけて学校へ行き、担任教師に協力を仰いでいました。
当時の母は毎日時間さえあれば、白茜如さんがパーソナリティを務める「私たちの家庭」というラジオ番組を聴いていました。40年以上も前、母はすでに教師と保護者がコミュニケーションを深めるという先進的な概念を実行していたのです。今でも母の勇気と知恵に心から敬服しています。
私たちの親愛なる父は、中華民国38年、24歳で台湾を訪れ、母と出会って恋に落ち、家庭を築きました。その後10年のうちに五人の子供が生まれたことで、人生をかけて働かなければ家族を養えなくなりました。
父は軍の当番以外にも、何とか稼いで家族を養おうとしてくれました。当番がない時の父はいつも厨房に立ち、魔法使いのようにおいしいおかずを作ってお腹を空かせた五人の子どもたちに与えてくれたことを、今でも覚えています。
勤勉な母は、家族を養うために服を修理したり編み物をしていました。子どもを背中におんぶしてミシンを踏みながらうたた寝する光景が、私の目に焼き付いています。こんなに苦労しても、子どもたちの学校の新学期にはまとまった学費を支払うには足りず、友人たちからお金を借りたり、長官に給与の前借りをしたりしなければなりませんでした。
父は重圧を背負っていても母に対して声を荒げたことはなく、五人の子どもたちを責めたてたことはありません。子どもなら誰でも、いたずらで言うことを聞かない、反抗期のような時期があるというのに?
家族の中では、私が最も社交的で活発で、両親に心配をかけていたように思います。
学校から私が帰って来たはずなのに、家の中にランドセルが投げ込まれただけということがよくあり、いつも母が「おや? 人はどこへ行った?」と言っていたのを覚えています。また、清明節に二人の弟を連れて人様のお墓の前に立ち、お辞儀をするだけでお供物を取って良いという遊びをしたことがあります。自分では面白くて頭の良い方法だと思いましたが、母を悩ませ、とても悲しませてしまいました。
子どもの頃の眷村では、食事の時間になると母親たちが大声で自分の子どもを呼び戻していました。それは日々繰り返されるシーンで、うちの母も皆と一緒に負けじと怒鳴っていて、今その様子を思い出すだけでも面白いものです。
母の細やかなケアのおかげで、現在、父の身体はかなり回復することができています。
お手伝いさんがいるのですが、母は父の世話を人に任せようとせず、できるだけ自分で行っています。お医者さまから「歳を取ったのに諦めないというのは、最も偉大な愛情ですね」と言われたことがあります。
両親が歳を取ったので、今度は私たちが彼らの世話をする番です。
いつも自分が暖かい服を着る度に、「父と母は十分暖かくしているだろうか?」と考えます。履きやすい靴を履く度に「父と母の靴は履きやすいだろうか?」と考えます。
母が家庭や子どもたちに私利私欲なく献身してくれたことは私たちにとって最も大切な財産であり、最高の手本でもあります。親愛なるお父さん、お母さん、ありがとう!