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オードリー・タンが慕ってやまない父方の祖母、ツァイ・ヤーバオ(蔡雅寶)について

拙著『オードリー・タン 母の手記『成長戦争』』から引用してご紹介

オードリー・タンの父方の祖母・ツァイ・ヤーバオの自伝の日本語翻訳文公開に先立って、より理解が深まるよう、拙著『オードリー・タン 母の手記『成長戦争』』から、ヤーバオさんについて書かせていただいた部分を引用します。


出典:『オードリー・タン 母の手記「成長戦争」』(KADOKAWA)
第三章『「みんなの子」オードリー・タン』より一部抜粋

(引用ここから)

偉大な義母

2020年、コロナ禍でマスクの実名制による購入システムを設計する際、オードリーが87歳になる祖母にアドバイスを請うたことがニュースなどで伝えられたのが、記憶に新しい。オードリーが慕ってやまない父方の祖母、蔡雅寶(ツァイ・ヤーバオ)だ。

1995年、オードリーは全台湾の小中高生が参加する科学コンクール「科展」に『電腦哲學家』という作品で参加、第1位に。隣が父方の祖母・蔡雅寶(ツァイ・ヤーバオ)。
オードリーはデジタル担当大臣となった今でも、政策のわかりやすさなどについて祖母に相談することがある。(提供:唐光華/オードリー・タン)
※こちらの写真は『オードリー・タン 母の手記「成長戦争」』に掲載されたものではなく、別の拙著『オードリー・タンの思考』に収録されています。

蔡雅寶は1934年、日本統治時代の台湾・彰化で生まれた。「春子」という日本語名も持っている。父方の祖父が鹿港の《文開書院》という台湾の文化教育において権威ある学校で院長を務める兄を持ち、自身も助手を務めるという、地元では名の通った名家の出身だった。しかしながら、彼女自身は波乱万丈な運命の中を生きた人である。

鹿港の《文開書院》は1985年より彰化県の古跡に指定され、参観が可能。
(※筆者撮影、拙著には収録されていません。)
現在の《文開書院》内部の様子。
(※筆者撮影、拙著には収録されていません。)

話が『成長戦争』から少しそれるが、蔡雅寶は2012年、齢80歳の時に、子どもや孫たちのサポートを受けて執筆した中国語の自伝『追尋ーー鹿港到眷村的歳月(追憶――鹿港から眷村の歳月)』を出版している(発行人:唐光華、編集:唐光華・唐光德)。孫のオードリーが手書きキーボードをプレゼントし、蔡雅寶が 1字1字手書きした文字を電子化するという手法で、一年間がかりで作られた。

蔡雅寶の自伝『追尋ーー鹿港到眷村的歳月』は現在、インターネット上に公開されています。
(※筆者撮影、拙著には収録されていません。)

小学生の頃の彼女は日本教育を受けていたが、時は太平洋戦争の最中、疎開のため小学4年生で学習の機会を奪われている。彼女の中国語は後に父親と1年間だけ中国語の塾に通った以外、正規の学校教育を受けたことはない。

父の3人目の後妻に冷遇されながらも、手に職をつけて家族の生活を支えた。二二八事件(1947年※)が起こった直後には、中国大国の陸の四川から台湾に来た空軍士官長、いわゆる外省人がいしょうじん(1945年の第二次世界大戦終戦以降に中国大陸から台湾に移り定住した人)と結婚した。当時は本省人ほんしょうじん(外省人が定住する以前から台湾に住んでいる人)と外省人の関係が最も悪かった時期だ。 18歳にもならない彼女は、周囲の年寄りから「結婚が3年続いたら、私は耳を切りましょう」と言われるほどうまくいかないと思われていたが、それでも愛する人のもとに嫁いだ。

二二八事件(1947年)
1895年から1945年での半世紀、台湾は日本の統治下に置かれていたが、第二次世界大戦での敗戦により、日本は台湾の領有権と請求権を放棄した。その後、蒋介石率いる国民党政府が台湾の新たな統治者となった。当初、国民党政府は「光復」(日本による統治が終わったことを示す言葉)という表現を多用し、台湾人を懐柔したが、相次ぐ外省人による横暴な振舞いが住民の反感を買い、人々の不満は鬱積していった。
そんな中、外省人の官吏が闇タバコを販売する本省人女性を取り締まる際に暴行したことを機に抗議運動が起き、各都市へと広がっていくが、国民党政府は武力を用いてこれを鎮圧。多くの死傷者が出た。以降、外省人と本省人の対立が強まったことで、国民党政府は戒厳令(1949〜87年)を敷き、白色テロが横行する言論統制の時代へと繋がっていった。

本のタイトル通り、鹿港という台湾の地方都市の名家から、眷村けんそんという貧しい外省人社会の中へ身ひとつで移った彼女は、裁縫の技術を修得し、軍人たちの服を修理することで日銭を稼ぎ、 5人の子どもたちを育て上げた。それはそれは壮絶な人生なのだが、彼女はどんなに苦しくても前向きだった。李雅卿の『成長戦争』も、蔡雅寶の『追尋』も、ステレオタイプな歴史の教科書よりずっと、その時代や人々の生き方をありありと教えてくれるし、時代のうねりの中でたくましく生きていく彼女たちの姿に励まされる。また、こうしたファミリーヒストリーを残すということが、一族が代々続いていく上で非常に意義があることのように感じた。

※眷村(けんそん)
共産党軍との内戦に敗れた〈中国国民党(以降、国民党と記載)〉政府が中国大陸から台湾に国体を遷した後、下級兵士を中心とした外省人が集まって暮らしていたエリア。反攻大陸(大陸を取り戻す)のための一時的な生活空間とされていたため、多くは貧しく、住民は最下層の生活を強いられていた。戦後に台湾へ渡ってきた「外省人」に対し、戦前から台湾に住む漢人系の移民(17世紀以降に中国大陸の福建省から来た閩南人と、客家人たち)を「本省人」と呼ぶ。

戦後、日本人に代わって統治者に君臨した少数派の外省人と、統治される側で多数派の本省人との間には数多くの葛藤が見られたが、時代の経過とともに通婚の事例も増え、外省人3世、4世の時代となっている現在では、対立はかなり緩和してきている。

『成長戦争』同様、こちらも目が腫れ上がるほど涙しながら読了したが、長男の唐光華が大学に合格した時の蔡雅寶の嬉しそうな様子には特に胸を打たれた。唐光華は眷村出身で国立大学に合格した2人目の子どもとして、周囲からお手本にされた。一家は当時住んでいた眷村で1番最後に冷蔵庫、テレビに洗濯機を買った家だ。そのような経済状況にありながら教育には惜しみない投資をしていたというのだから、頭が下がる。

自身は戦時中で小学校さえ卒業できなかった蔡雅寶は「学びが続けられなかったことが人生で最も遺憾で苦痛だった」と記している。だからこそ、どんなに生活が苦しくても子どもには1 番良い教育をと考え、金銭の工面をしていた。人目を忍びながら、割の良い眷村の公衆トイレ掃除のアルバイトをしたこともある。

オードリーの誕生をきっかけに、蔡雅寶は夫とともに長年親しんだ眷村を離れ、台北の唐光華らと同居を始めた。毎朝早くにベビーカーでオードリーを散歩に連れ出し、薬を飲むのを嫌がれば砕いて粉末状にしてからミルクに混ぜて与え、風邪をひかないように摂取量を計りながらビタミンCを与えてくれた。

(引用ここまで)


台湾の歴史を学んでこなかった、私たち日本人にこそ伝えたい

オードリーさんのお母様が書かれた『成長戦争』を翻訳していたら、お婆様の自伝と出合い、その2冊を読むと、それぞれのお人がどうして今のような価値観を持たれるようになったのか、わずかでも手がかりが掴めたような気がしました。

そして、そんなご家族にオードリーさんが誕生したこと、『成長戦争』を経たオードリーさんが今、台湾の要であるデジタルを引き受けてくださっていることにも、感謝の気持ちでいっぱいになります。

と同時に、日本語にして日本人に届けるべきだと思う内容がたくさん含まれていました。私自身、義務教育で台湾の歴史について学ばなかったこともあり、台湾に来るまでその歴史を全く知りませんでした。

そして、今こうして台湾について執筆していると、驚くような過去の歴史にたくさんぶち当たります(表現が荒くてすみません)。「自分はこんなことも知らずに生きてきたのか」と恥ずかしくなるようなことばかりです。

でも、台湾の方はいつも私の不勉強を責めることなく、「知るのに遅いということはない、いつからでも知ろうとする人に歴史は開かれている」と、熱心に教えてくださいます。

ツァイ・ヤーバオさんの自伝を通して、少しでも多くの日本人に台湾と日本の間でどんなことがあったのか、それに大きく影響を受けた一人の女性の人生を通して、私と一緒に学んでみませんか? 

もちろんこれは一人の物語で、このほかにもさまざまな人生があると思います。でも、少なくとも一人、こんな人生を生きてきた女性が台湾にいるのです。

なお、拙著『オードリー・タンの思考』に収録した「オードリー・タンの生い立ち」についても、下記noteで公開していますのでご興味あればぜひ。


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近藤弥生子 | 台湾在住ノンフィクションライター
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