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子の話(二)「お母さんのミシン」春蘭(長女)

訳者補足:作者ツァイ・ヤーバオの長女・春蘭による前書きです。

 私は長女です。兄より四歳小さく、内向的で人見知りで、いつも母にくっついていたので、両親から手をかけられて育ちました。

 兄は高校生の頃、家族と離れて「台北学苑」という学生宿舎で暮らしていました。二週間に一度、兄が帰って来る日は、楊さんの肉屋へ行く母に付いて行ったのを覚えています。母は毎回10元分の豚肉を買い、食事を少し豪華にしてくれました。

 その後、私は看護学校に入って学生寮で暮らし始めました。
学校の規定で月に一度しか実家に帰ることができなくなったので、実家に帰る日曜はいつも朝6時に起き、まっすぐ近くの川辺で家族の洗濯物を洗う母のところに行き、そこから二人で実家まで帰ったものでした。私と母はいつもその帰り道に語り尽くせないほど話をしましたので、幼い弟や妹よりも、少しだけ両親の苦労が分かるようになったと思います。

 テレビも冷蔵庫もない時代、家にはリビングの机と何脚かの椅子以外に、一台のミシンがあるだけでした。母は16歳から縫製工場で働いた経験と、二冊の裁縫ガイド本で独学した知識だけを頼りに、ご近所さんたちの洋服を作ったり、兵隊さんたちの軍服を直したりしてお金を稼ぎ、家計の足しにしていました。
 きっと、疲れていたのでしょう。母は洋服を縫いながら眠気に負けてうたた寝することが多く、幼く無知な私が眠るよう言っても、頭を上げて目をこすり、ミシンを踏み続けました。
 母のミシンは私たちの成長に付き添い、食べ物や衣類を与えてくれ、子ども時代の良い思い出をたくさん残してくれました。こうした思い出には、母の知恵や子どもたちへの愛が満ち溢れています。

 子どもの頃の私は母が作ってくれた四着の洋服を持っていました。
今でもはっきりと覚えているのが白いチュチュスカートで、幼稚園のダンス発表会で「花売り娘」を演じる時に着たものです。顔に薄く化粧をし、頭に髪飾りを乗せ、本物のお姫様になったようでした。もう一着は妹と同じ色で、形が異なる大きな花柄のワンピースです。ローウエストでリボンと襟が付いていました。父の空軍防空学校クラス会に着て行き、私たち姉妹はたくさん褒めてもらいました。

 私がまだ幼かった頃のことです。叔父が結婚するというので、母は淡水へ行って緑と白のチェック柄の布を買い、工夫を凝らして同じシリーズのさまざまなワンピースとシャツをデザインし、四人の子どもたちをおめかしさせて彰化の実家に連れて行ってくれました。
 中学生の頃、老梅小学校の同窓会に参加しようとした時には、家に新しい洋服を買うお金がありませんでした。母はアメリカから寄付されたコートの縫い糸を切り、裁断し直して、全く別の大きなポケット付きショートコートを作ってくれました。おめかしが大好きな私は、制服を着た同窓生たちと一緒に素敵な集合写真を撮ったものです。その時の写真は今も大事にアルバムの中にしまってあります。


 こうした成長の過程で母と私はとても親密になり、何でも話せる関係になりました。
 今の両親はまるでお世話が必要な子どものようです。私は彼らにおいしい家庭料理を作って食べさせたり、おしゃべりに付き合ったり、郊外の自然に連れて行ったり、小さなレストランで食事をしたり、病院に連れて行ったりしています。今の私にできることは、彼らにより良い暮らしをしてもらうことだと思っています。

 電車に乗って淡水の実家に帰る度、觀音山を眺めながら、自分はとても幸せだと思います。結婚して幸せな家庭を持ち、56歳になった今でもまだ帰ることのできる場所があるのですから。
 実家で過ごす日々をもっと大切にして、両親と一緒にいられる時間をしっかり過ごそうと思います。昔、何の文句も言わずに私たちの世話をしてくれた彼らを、今は私たちが大切にする番です。ただただ、自分が将来「孝行したい時に親がいない」と後悔することのないように。


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近藤弥生子 | 台湾在住ノンフィクションライター
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