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マタイによる福音書第4章1〜11節「人はパンだけで生きるものではない」
8月18日における尾久キリスト教会の広瀬邦彦先生による説教。この日の題材はマタイによる福音書第4章1〜11節「人はパンだけで生きるものではない」。「荒野の試練」と呼ばれるこの箇所を3回に分けて説教したい。今日はその最初の部分を取り上げたい。
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キリストの公的生涯は30歳から3年間である。この間の布教を4つの福音書が伝えている。キリストはバプテスマのヨハネに、ヨルダン川🇯🇴で洗礼を施された。これはマタイ伝第3章である からして、第4章は洗礼後直ぐの話しであった。「荒野の誘惑」と題される第4章は、霊すなわち聖霊=神の導きによって悪魔を導かれた。神の国への途上における試練である。この時イエスは40日間もの断食を経て、その精神は極限状態にあったはず。そこに悪魔がやって来たのである。イエスは神であり、人間でもある。今の日本🇯🇵は豊かな国となり、われわれは生涯飢えた経験もない。そんな中で、イエスは貧しい人々の中にいる。つまりイエスは先立って進んでくれる。われわれはその通り歩んで行けばいいのである。
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礼拝学校でよく歌われる曲に「イエスさまが一番」という歌がある。そのサビは「だってイエスさまは神さまだもの」という歌詞である。もちろんイエスは神であるが、人間でもある。だから人間の苦しみや喘ぎがわかる。ヘブライ人への第一の手紙第4章5節には、キリストは優しい大祭司であると説かれている。われわれに同情しつつ、自ら試練をお受けになられる方である。悪魔は石をパンに変えろと唆すが、それに対してイエスが「人はパンだけで生きるものではない」と答えたのは、申命記第8章3節を引用している。しかしこれを戦争渦中にある国や極貧に喘ぐ国にとって、今日のパンが無くして何のための世間だろう。人は贈り物🎁を喜ぶ。けれど贈った人の心は自然に忘れたしまう。第一テモテ人への手紙には「この世で富んでいる者たちに、命じなさい。高慢にならず、たよりにならない富に望みをおかず、むしろ、わたしたちにすべての物を豊かに備えて楽しませて下さる神に、のぞみをおくように」と。富んでいる者たちへの警句であろう。