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創世記第21章8〜21節「見て、開かれる神」

7月21日における尾久キリスト教会の広瀬邦彦先生による説教。この日の題材は創世記第21章8〜21節「見て、開かれる神」。

創世記第21章8〜12節「見て、開かれる神」
創世記第21章12〜21節「見て、開かれる神」


 人生は笑いもあれば、涙もある。笑っている人がいる陰で、泣いている人もいる。今日の箇所では笑っている人はサラ、泣いている人はハガルである。もともとハガルはエジプト🇪🇬出身の奴隷だった。しかし不妊だったサラは、自らの奴隷であるハガルを夫アブラハムのもとに遣わして子供・イシュマエルをもうけた。しかし神が自らの子を与えたことで、サラは自分の息子イサクの将来に不安を感じた。それで夫にハガルとイシュマエルの追放を願った。サラにとっては妾腹の子でも、アブラハムにとってはイシュマエルは我が子であったので、それは辛い話であった。イシュマエルはアブラハムとサラの不信仰によって産まれた子である。アブラハムはできる最善を為して、二人を送り出した。だが神はイシュマエルを憐れみ見放さなかった。この世のあらゆる生も命も、神の慈しみはあまねく注いでいる。神の愛から漏れてはいない。
 ハガルは絶望した。だから不幸に打ちひしがれていて、直ぐそばにある井戸を認識できなかった。つまり聞こえていても聞こえない、見えていても見えていない状況だったのである。今年の東部教区・西部教区合同新年聖会では、神中栄牧師が「アンシャンバイアス」について語られた。無意識の思い込みは、ものごとを正しく見ることができなくなります。例えば血液型による性癖、赤いランドセル🎒と言えば女の子の物、親が単身赴任中と言えば、父親だと思い込むだろう。『この人は嫌だ』と思っていたら、その人の良い面は見えない。『もうダメだ』と絶望するということは、イエスの存在が見えていない。自身の思い込みというサングラスを外してみれば、世界は違って見える🌏。私たちが見えていないものを神さまは見えている。ハガルの目を井戸に向けて捧げたように、主よ私たちの目も開いて下さい。

ハガルとイシィマエルを家から追い出さざるを得なくなったアブラハム①
アブラハムとサラに追い出されたハガルとイシュマエル①
ハガルとイシィマエルを家から追い出さざるを得なくなったアブラハム②

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