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「驚き」という感情の大切さ

8月29日の尾久キリスト教会の高橋武夫先生の説教は、ルカ伝第7章36〜50節。テーマは「赦しは愛の大きさでわかる」。ある九州の介護施設で人類の月着陸を聞いた老婦人は顔を真っ赤にして怒ったそうだ。「最近あまり光らないと思ったら、勝手にかき混ぜて」と。科学に興味が 深い自分も、1970年の大阪万博で「月の石」を観に行った。しかし大行列で興味を削がれてしまった。三田誠広「天才科学者たちの奇跡」を読むと、ごくごく身近な出来事への驚きから、世界的な発見や発明が生まれる。国木田独歩は短編「牛肉と 馬鈴薯」の中で「喫驚したいというのが僕の願いなんです」と語っている。国木田独歩は、植村正久牧師に導かれて受洗している。振り返って釣り好きの自分は大物を逃した時に周囲に悔しさをつい語ってしまう。これもサイズを誇りたいというより、獲物の大きさへの驚きを周りに伝えたいのである。
 回りくどい話になったが、聖書におけるキリストとの出会いに共通する感情は「驚き」である。数えれば聖書には20箇所以上も、そのような場面がある。ルカ伝でパリサイ人がキリストをもてなすシーンは3回あるが、ここは最初の回。「罪ある女」とは売春婦を意味するが、当時のユダヤの食卓は長椅子に肘を突く自由なスタイルで、出入り自由な中庭にベールで顔を隠して忍んできたのだろう。しかし自分を赦したイエスに会えた感激に涙し、高価なナルドの香油をイエスの脚に塗った。このことで会場は騒然となった。彼女を咎めようとしたパリサイ人を諌めたイエスの言葉が共同訳で見事に表現されている。「この人が多くの罪を赦されたことは、私に示した愛の大きさでわかる」。信仰とは見える行動の中に現れる。生まれた時から心臓病で寝たきりの68歳の女性と電話だけで繋がっている。彼女の祈りは、いつも神への怨嗟である。自分はいつかこの女性に、神との出会いの驚きを導くことができるものだろうか。

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