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「マタイによる福音書」第5章17〜20節「律法を完成させるお方」

10月20日における尾久キリスト教会の広瀬邦彦先生による説教。テーマは「マタイによる福音書」第5章17〜20節「律法を完成させるお方」。


 日本には「弘法は筆を選ばず」という諺がある。先週はユーオーディアによるチャペルコンサートがあった。プロの演奏は素晴らしいものであった。それぞれの演奏者はプロなりに、自分の楽器の選定にこだわりがあるはずだ。しかし私がユーオーディアの皆さんの楽器を使って演奏しても、雑音を発するだけだろう。しかしユーオーディアの皆さんは、たとえ初心者向けの楽器であっても、素晴らしい演奏をすることでしょう。
 今日取り上げた箇所の17節以降は、律法について語られている。イエスは自分が律法=旧約聖書を廃するために来たわけではないと説いている。自分としては、イエスが「律法のことを気にする必要はない。自由に過ごしなさい」と言って下さった方がいいような気もする。しかし律法とは神の戒めである。その最も有名なものは「出エジプト記」でモーゼが示す「十戒」である。信仰生活における決まりごとである。イエスは律法を成就、完成するために世に来た。そして律法はイエスだけが守ればいいわけではない。イエスこそは名人である。私たちが律法に沿った歩みをすることを助ける。私たちは道具であり、それが良くも悪くも、良い働きができるように導いて下さる。


 律法は愛を求める。神を、隣人を愛することこそ、最も重要な律法である。イエスこそ愛の名人であり、聖霊によって私たちの心を満たしてくれる。イエスは私たちに、律法学者やパリサイ人の心に刺さるくらいの律法の遵守を求める。律法を守ることに精励している律法学者やパリサイ人を超えるということは、これは非常に高いハードルである。しかしイエスの律法学者やパリサイ人への評価は「偽善者」である。「ルカによる福音書」第18章9〜14節には、キリストによる例え話が紹介されている。ここに登場する役人とは律法学者やパリサイ人を指している。取税人を見下し、自らの正しさを数える人であった。へり下る者こそ、崇められる存在なのである。

 

妻は荒川区の健康診断を積極的に受け、私にも受けるように尻を叩く。今のところ特に大きな疾患も発見されず、ありがたい限り。検査検診の効果は早期発見。イエスは自身を医者に例えた。罪という霊的な病いを癒す医者である。この検査こそ、罪を明らかにする律法である。罪の自覚によって、神に憐れみを乞う。これこそが律法学者やパリサイ人に優る道である。イエスは滅びから復活し、永遠の生命をわれわれに与えて下さる。 

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