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「創世記」第23章1〜16節「この世では旅人」

1月26日の尾久キリスト教会における広瀬邦彦先生による説教テーマ「創世記」第23章1〜16節「この世では旅人」。

「創世記」第23章1〜10節
「創世記」第23章10〜16節


 信仰の父と呼ばれたアブラハムの妻サラは、127歳にしてヘブロンで亡くなった。アブラハムは妻の死を嘆き、大いに泣き悲しんだ。『家族の死に取り乱すべきでない』と言う人もいるが、愛する人や身近な人の死に泣くことは許される。イエスは「マタイによる福音書」第5章4節で「悲しんでいる人たちは、さいわいである、彼らは慰められるであろう」と語っている。そして自身も「ヨハネによる福音書」第11章35節で、ラザロの死に涙を流されている。「ローマ人への手紙」第12章15章では「喜ぶ者と共に喜び、泣く者と共に泣きなさい」とある。
 「ペテロへの手紙第1」第2章11節には「愛する者たちよ。あなたがたに勧める。あなたがたは、この世の旅人であり寄留者であるから、たましいに戦いをいどむ肉の欲を避けなさい」とある。アブラハムは西方への旅人であった。キリスト者は、この世では旅人である。寄留者であり、滞在者でしかない。この世の者であっても、この世の者ではない。「ピリピ人への手紙」第3章20節には「しかし、わたしたちの国籍は天にある」。神の赦しの下に、われわれの国籍は天にある。天の御国の到来によって、天と地が合体して、われわれは永遠となる。この日を待ち望んでいるという意味において、われわれは寄留者であり、旅人なのである。悪魔は富、名誉、名声、快楽などで、われわれを誘惑する。これらが人生の全てであり、目的であると思わせる。神はこの誘惑を退けるよう、執着心を手放すよう注意している。
 今日の説教箇所は、墓地の買取交渉がテーマである。ヘブロンの人々は無償供与を申し出るが、アブラハムは有償を希望。墓地はこの世に生きてきたことの証しである。神の恵みの実感、死への実感、永遠への想いを持つ場である。サラの墓には、やがてアブラハムも、その子イサクも、その孫ヤコブも埋葬されることになる。日本人のギリシャ正教会司祭の方が書いた本を読んでみた。ギリシャ🇬🇷では聖なる山アトス修道院で生活されていた。その本にはいくつか写真が掲載されていたが、その最初に礼服を着た司祭の写真があった。その背景には髑髏が数多く並んでいて、ギョッとした。髑髏は修道院生活を送った人たちのものだった。この写真を見て『復活信仰を強く持たれている人々なのだ』ということを実感した。今の社会は、死を遠ざける傾向がある。ある地方出身の医師は「田舎では人家や生活圏のそばにお墓があり、人の死を身近に感じた。しかし東京には(近くに)お墓がない。死を遠ざけて、見ないようにしている」。詩篇第90篇第10篇には「われらのよわいは七十年にすぎません。あるいは健やかであっても八十年でしょう」とある。誰しも、私もいずれ死ぬ。墓地は死について考える場所。ただ永遠の住まいではない。復活したキリストの墓は、空っぽだった。「ヨハネによる福音書」第11章25節には「わたしはよみがえりであり、命である。わたしを信じる者は、たとい死んでも生きる。また、生きていて、わたしを信じる者は、いつまでも死なない」。

妻サラの墓地を求める交渉に臨むアブラハム1️⃣
妻サラの墓地を求める交渉に臨むアブラハム2️⃣
妻サラの墓地を求める交渉に臨むアブラハム3️⃣
アブラハムの妻サラが亡くなったヘブロンの位置
アブラハム一族の墓🪦

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