「マタイによる福音書」第5章1〜12節「空っぽの手を差し出して」
10月6日における尾久キリスト教会の広瀬邦彦先生による説教。テーマは「マタイによる福音書」第5章1〜12節「空っぽの手を差し出して」。
新約聖書には4つの福音書が収録されている。その中で「マタイによる福音書」の特徴は、第5章から第7章に「山上の説教(垂訓)」が収録されている点。これはイエスが山の上で多くの人に語ら れた教えである。その冒頭には8つの幸い(八福の教え)が語られている。こころの貧しい人たち、悲しんでいる人たち、柔和な人たち、義に飢えかわいている人たちは、あわれみ深い人たち、心の清い人たち、平和をつくり出す人たち、義のために迫害されてきた人たち。いずれも世間で言うところの幸せとは対立している。しかしここで言う幸せとは、神に祝福されているの意である。迫害された人々に、報いは現世から来世に至るまで永遠に来る。かつて明石家さんまが、調味料のCMに出演していて「幸せって何だっけ?それはポン酢醤油があること」と語った。つまり世間が言う幸せとは、何を持っているかである。財産、環境、実績、社会認知、能力。クリスチャンの幸せとは、自分自身の在り方である。神と精霊の浄化による、自分自身の変革と成長に他ならない。
昔の偉人によれば「ホーリネスとはハピネス」であると説いた。幸せとは清さによるご褒美ではない。清くあることによって、心が満たされることである。私はキリスト教著作者であり、カトリック神父であるヘンリー・ナーウェンに大きな影響を受けた。彼は著書「まことの力への道」の中で「『8つの幸い』とは、キリスト自身の自画像である」と述べた。キリストの似姿に変えられるように生きることが肝心である。新聖歌382番「心から願うのは 主のようになること 御形に似るために 世の宝捨てます 主のように主のように きよくしてください この心奥深く 御姿を写して」というように。
私がお世話になった先生は、この山上の説教やハ福について「最も大切なのは最初の第3節『こころの貧しい人たちは幸いである』」と述べた。そこを鍵として、一つ一つを理解すべきである。心の貧しい人々は、空っぽの手を神に差し出す。「私たちに自慢できるものは何もない。ただの罪人である」と。物乞いのように神に愛を求めるのである。今日は聖餐式がある。パンと葡萄汁は、イエスの肉体であり、血でもある。キリストは十字架に掛かって、血潮を流しながら、自分の全てを与えた。そして愛し抜いてくれたのである。自分の心をイエスの物とし、キリストの歩んだ道を辿り従うのが大切。