創世記第17章1〜14節「全能の神、多くの国民の父」
5月26日における尾久キリスト教会の広瀬邦彦先生による説教。この日の題材は創世記第17章1〜14節「全能の神、多くの国民の父」。
先々週はフレッシュアワーという、教会員の懇親の場を持った。出席者には自己紹介をしてもらった。そこで名前の意味を振り返ってもらった。例えば自分の名前は邦彦だが、「彦」は父の敦彦から一字もらった。やや荷が重いが「邦」の字は国(邦)の中で賢い男子という意味だったそうだ。創世記第17章1節で、神の命によって、アブラムがアブラハムに改名したということは、生まれ変わることを意味する。ここで神も自己紹介している。自らが「全能の神」であることを開陳している。ヘブライ語で全能の神を表す「エルシャダイ(エール・シャッダイ)」の「シャダイ」は乳房を意味する。これは父なる神が母性を包含していることを指す。昔、味噌のCMで「ママの手は魔法の手」という歌詞があった。母親の手は編み物をし、ケガの治療をし、美味しい料理を作ってくれる。そして母乳は乳児にとって完全食である。神は全能であり、父であり、母である。
神がアブラハムに命じた「全き者」の意味は、神に頼り切り、委ね切ることを指す。自分の息子は、幼い頃にジャングルジムの最も高いところに登ったはいいが、自分では降りられなくなった。そんな時に、父親である自分が腕を広げる中に「エィッ!」と飛び込んできた。その時に息子は『お父さんはちゃんと受け止めてくれるだろうか?、落っことしたりしないだろうか?』などと疑うことはまったくなかった。神がアブラハムに求められたことは、私の3歳だった息子が私に寄せた無心の信頼である。
聖書における名前は記号ではなく、実体=新しい人格そのものである。カトリックや聖公会では、洗礼後にクリスチャンネームが与えられる。たいてい聖人の名前が多い。これはプロテスタントではない習慣だが、洗礼とは新しい生命に救われるということである。来るべく御国で、自分が神にどう呼ばれるか楽しみである。アブラハムは、神の祝福源となった、新型コロナウィルスは悪き伝播であったが、こちらは神から人への良き感染である。