創世記第17章15〜27節「子々孫々に及ぶ祝福」
6月16日における尾久キリスト教会の広瀬邦彦先生による説教。この日の題材は創世記第17章15〜27節「子々孫々に及ぶ祝福」。
神はアブラハムと妻サライに別の名を与えた。アブラハムにはアブラムと。これは多くの国民の父の意である。そしてサライにはサラという名を与えた。これは王妃の称号であり、諸国の民の母を意味する。そして神はアブラハムとサライ夫妻に、子の誕生を預言された。齢99歳のアブラハムと、90歳のサライにとっては、思いもよらぬお告げだったことだろう。 しかしアブラハムは不敬にも心の中で『今さら妻に子を授かるなどとあり得るだろうか』笑った。なぜならサライは既に閉経していたから。だからサライはアブラハムに女奴隷ハガルをあてがって、子イシュヌエルを夫妻の息子としていた。だからアブラハムは「イシュヌエルを神と共に」と祈った。しかしこれは不信仰な言動だった。アブラハムとサライは待つべきだったのである。なぜなら神は全能であるから。もちろんイシュヌエルはアブラハムの実の子であるから、父として彼を守りたいという気持ちもあったことだろう。そして神は統治の契約はアブラハムに産まれるであろうイサクと契約するが、アブラハムのイシュヌエルへの気持ちも疎かにしなかった。神はイシュヌエルに対しても、大いなる国民として、多くの子孫を保証した。今日は父の日。父となって、子が育つと、子々孫々の繁栄ということのありがたさが身に染みるようになってくる。蟻🐜は、より大きな人間のことはわからない。われわれは神に身を委ねて任せるべきである。元旦礼拝でイザヤ書第40節27〜31節で取り上げたように、神の全能に身を委ねれば、神に存在を喜ばれる毎日となるはずです。