見出し画像

「マタイによる福音書」第5章21〜26節「大切なわたし、大切なあなた」

10月27日における尾久キリスト教会の広瀬邦彦先生による説教。テーマは「マタイによる福音書」第5章21〜26節「大切なわたし、大切なあなた」。

「マタイによる福音書」第5章21〜25節
「マタイによる福音書」第5章25〜26節


 「どうしておなかがへるのかな〜」という歌詞で始まるのは「おなかがへるうた」という歌です。この中でインパクトがあるのは「かあちゃん、かあちゃん、おなかとせなかがくっつくぞ」でしょう。実際にはお腹と背中がくっつくわけはないので、このような表現を「誇張表現」と言います。

誇張表現された「おなかのへるうた」


マタイ伝第5〜7章の山上の垂訓でも、誇張表現は多く用いられています。これはその通りにせよという意味ではなく、そのような表現を通して強く訴えたいことがあるということです。本章21節の「殺してはならない」は旧約聖書の出エジプト記に出てくるモーゼの十戒の第6の戒めです。22節の「人に腹を立てること」を取り上げて『殺人と同等の罪?』と訝る人も多いはずです。ここで言う「腹を立てる」ということは、一時の怒りではなく、長く続く憎しみを指します。憎しみは殺しの動機にもなる感情です。もし殺人の前科がある人と対面したら、私たちはどうでしょう。今の若者風に言えば「退いてしまう」のではないでしょうか。憎むという感情は、相手の存在を厭うことです。それは私の生活から消えて欲しい、極端に言えば相手の死を願う心に通じます。そのような心は前節20節でイエスから非難されたパリサイ人や律法学者の義に他なりません。旧約聖書の律法には敬虔だが、自分たち以外を見下す心。それをイエスは偽善者とみなした。私たちが殺人者に対して覚える慄きも、ある意味でパリサイ人や律法学者の感情と共通しかねません。

モーゼの十戒


 ドラえもんの秘密の道具の中に「どくさいスイッチ」という道具があります。これは自分の気に入らない人を消す力があります。しかも消した人は、もともとこの世に存在しないことになってしまいます。わたしたちは「どくさいスイッチ」を使いたいと思ったことが、今まで生きてきた中で一度もないでしょうか? 神にとっては「消す」ことは「殺す」に等しいことでしょう。

ドラえもんの「どくさいスイッチ」


 クリスチャンシンガーである三上勝久氏に「マラナタ」という歌があります。その歌詞は過激です。「たまたま殺す必要がなかったから、あなたを殺さなかっただけだ」で始まり、エンディングは「そういう機会があったなら、世界一の悪党になったはず」。しかしそういう意識があるなら、神の前に遜った心があるから救われる。第22節には「兄弟に向かって馬鹿者と言う者は、地獄の火に投げ込まれるであろう」とある。神さまはあなたのことを馬鹿とは呼ばせたくない。そしてそれは、あなたの隣の人に対してもそうである。なぜなら神さまは、すべての人を自らの姿に似せておつくりになっているからである。山上の垂訓には共通のキーワードがある。それは「義」である。隣人を労りあって生きるこそ、神さまを尊重することに他ならない。

いいなと思ったら応援しよう!