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三番目に好きだった元大関・旭國(元大島親方)が逝去

元大関・旭國(元大島親方)である太田武雄氏が77歳でお亡くなりになった。昭和38〜54年の16年間、立浪部屋に所属。大関を21場所務め、準優勝4回、635勝479敗(57休)もの立派な戦績を残した。身長と体重は174センチ、118キロと小兵(入門時は体重86kg)。しかし「ピラニア」と呼ばれ、潜り込んで食いつく相撲が特徴だった。一方で「相撲博士」とも呼ばれた業師でもあった。三賞受賞が7回あるが、うち技能賞が6回もあった。活躍時期が輪湖(輪島と北の湖)全盛時代に当たり、準優勝は4回あるも、優勝はできなかった。引退して年寄・大島親方となり、大島部屋を興した。旭富士、旭天鵬、旭道山、旭豊、旭鷲山らを育てた。中でもモンゴル人力士を積極的にスカウトして育てた功績がある。
 自分は第51代横綱・玉の海とロシア人力士・阿夢露に次いで、とても好きな力士だった。小兵力士だったことから、特に巨体の北の湖に挑むファイト溢れる姿にワクワクした。結局のところ、輪島と北の湖の両横綱を破って優勝はできなかった。そこが小兵の悲しさというか、自分は判官贔屓で応援していた。あとお父さんの方の大関・貴ノ花も同時代で苦手としていた。そこは横綱・初代若乃花の弟であるエリートの貴ノ花に対して、旭國は新弟子検査に4回も失敗(身長不足)した叩き上げの雑草魂だった。技が多彩であることも魅力だった。外掛け、内掛け、外無双、内無双、とったりなど旭國でこそ見ることができる四十八手のオンパレードだった。舞の海や宇良のような離れて取る相撲ではなく、しぶとく四つに食らいついてから、技を繰り出すタイプだった。だから長い相撲が多く、中でも昭和53年春場所で、魁傑と二度の水入りの末に結びの一番後の取り組みとなった。合計10分19秒の大相撲となった。「土俵で死ねたら力士の本望」というモットーが心を打った。小さな身体にも関わらず大酒飲みで、糖尿病や膵臓炎で苦労して、それが死因となった。好きだった力士が、定年退職後とはいえ、亡くなったことは寂しい限り。

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