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創世記第17章1〜14節「契約のしるし」
6月2日における尾久キリスト教会の広瀬邦彦先生による説教。この日の題材は創世記第17章1〜14節「契約のしるし」。前週は前半だったが、今週はその後半について。
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自分は2006年に妻と結婚した。その時に指輪💍を交換したが、それは手作りの物だった。それ以来、指輪を外したことはない。指輪を身につけるということは、その人と一生添い遂げるということを宣言することである。
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さて神とアブラハムが契約するに当たって、神は99歳のアブラハムに子孫繁栄とカナンの地を与えることを約した。その印としてアブラハムの子孫に割礼を求めた。割礼とは生後8日の男子に施す手術である。当時の女性の存在は誰々の妻、誰々の娘、誰々の母というように男性との関係で決まったので、ペアとなる男性が割礼すれば、それでよかった。印とは目に見えない物を見えるようにする働きがある。結婚指輪然り。学生が校章を身につけることは、その学校での在学を意味する。メダルはスポーツで優秀な成績を収めたことを知らしめる。割礼とはイスラエル🇮🇱の民にとって、神に選ばれた、神に愛されたことの印であった。このことが悪い方にも働いた。自らの選民意識で、他国の民を見下したりした。そもそも割礼は自らが為したことではない。周囲の大人が施したに過ぎない。
教会では日曜朝9時から教会学校が始まる。この中の献金で、献金収集担当の子供たちが口にする祈りがある。「このお金を神さまの愛がもっと広がるように用いて下さい」。これこそがクリスチャンの使命に他ならない。旧約聖書で、神はアブラハムに「祝福の源たれ」と命じた。それをイスラエルの民は間違えてとらえてしまった。それでは新約聖書において、神の印とは何か? それは洗礼である。これは貴方が神の子である印である。それは神からのプレゼントである。神は御子イエスを遣わして、磔刑の死を以って、われわれの罪を背負わせて下さった。そして死後3日目にキリストを復活させて、滅びに生命を与えた。印を持った人は、それに相応しい生き方をしなければならない。結婚指輪を身につけたら、夜の街を遊び歩くわけにはいかない。妻や家族に尽くさなければならない。校章を身につければ、ゲームばかりして遊んでいてはならない。勉学やスポーツに励むべきだ。メダリストになった以上は、その後に恥なき人生を歩むべきである。そしてクリスチャンは、神の子として生きるべきである。聖餐は神の肉体と血潮を味わう契約の印なのである。