マタイによる福音書第4章1〜11節③「十字架に降る道」
9月1日における尾久キリスト教会の広瀬邦彦先生による説教。この日の題材はマタイによる福音書第4章1〜11節③「十字架に降る道」。「荒野の試練」と呼ばれる箇所を3回に分けての最後の説教3回目。
マタイによる福音書第4章8〜9節には、悪魔による3回目の実験を描いている。今回の悪魔👿はイエスを高い山に連れている。この登山⛰️は現実ではなく、作られた神秘体験であることは、2回目の誘惑と同じ。悪魔の要求は「この世の全ての栄華を手にできるようにしてやるから、自らをひれ伏して拝め」というものだった。悪魔は嘘つきである。しかしその言い分に幾らかの真実も混じっていることが、厄介である。ヨハネの手紙第1章9節には「全世界は悪しき者の配下にあることを、知っている」とある。たしかに悪魔は、この世の権力者である。全世界は悪い者の影響と支配下にある。しかしそれは許されている限りなのである。この世界🌍を支配するのは王である神である。自分には悪魔の問いかけに疑問を感じた。あまりにも誘いかけが陳腐ではないかと。しかしよくよくイエスの気持ちを考えれば、これは大いなる誘惑だったのかもしれない。なぜなら全てを手に入れれば、十字架の磔刑を免れたまま、世界の秩序を保てるのかもしれない。しかしイエスは申命記第6章13節を引用して、悪魔に答えた。「あなたの神、主を恐れてこれに仕え、その名をさして誓わなければならない」と。それもそのはず、イエスが十字架にかからなければ、人は救われなかったのであるから。この箇所は十戒の最初と次を思い起こさせる。①主が唯一の神であること②偶像を作ってはならないこと。3つの誘惑とは1️⃣石をパンにすること2️⃣宮殿から飛び降りること3️⃣世界の国と栄華を手に入れること。この過程で悪魔はイエスをドンドン高い所に連れて行った。富・権力・名声を手に入れると、人は自らの力と信じる。「貧しき者は幸せである」との山上の垂訓は真実である。これらは人を神から遠ざけている。
第39代アメリカ🇺🇸大統領であるジミー・カーターは、平和外交で2015年にノーベル平和賞を受けている。在任中は教会学校の講師もしていた。そしてボランティア団体である「ハビタット・フォー・ヒューマニティ」に属して、ボランティアを務めていた。貧民街の建築物の修復を担当していた。作家のフィリップ・ヤーシーは、第39代アメリカ🇺🇸大統領であるジミー・カーターについて語った。かつての彼はサイン一つで数千の現状回復を成し得た。しかしそんな彼が、今はトンカチ片手に、貧民街の一戸々々に釘を立てている。まさに「貧しい人に仕える僕のように働いている」。ピリピ人への手紙第2章6〜9節には「キリスト讃歌」が含まれている。「キリストは神のかたちであられたが、神と等しくあることを固守すべき事とは思わず、かえって、おのれをむなしうして僕のかたちをとり、人間の姿になられた。その有様は人と異ならず、おのれを低くして、死に至るまで、しかも十字架の死に至るまで従順であられた。それゆえに、神は彼を高く引き上げ、すべての名にまさる名を彼に賜わった」とある。イエスは神でありながら人の形をとってくれて、かつ十字架の死を受け入れた。これこそ「十字架に下ってゆく道」である。