NHK『「筑豊のこどもたち」はいま、貧困のシンボルの末に』
12月20日に放送されたNHK「目撃!にっぽん」の『「筑豊のこどもたち 貧困のシンボルの末に」はいま』。
https://www.nhk.jp/p/mokugeki-nippon/ts/32M8QX25NV/
1960年に刊行された土門拳の写真集「筑豊のこどもたち」(小学館「土門拳全集11」1985年、築地書館1977年に刊行、いずれも実質絶版)。表紙を飾った少女の家族たちの60年後を追ったドキュメント。美しく愛らしい少女のアンニュイな表情は、観る者の心を強く動かす。当時の筑豊地帯は政府のエネルギー政策が石炭から石油に転換して、3万人の失業者=貧困層を生んだ。補償という意味で、国は充分な対策を打つことはできなかった。その結果多くの子供たちが犠牲になった。藁半紙版まで出て10万部を超えたベストセラーとなった写真集は、社会問題を提起して国会でも問題となった。土門拳は筑豊地帯の約200人の子供たちの無垢な魅力を写し続けた。そのカット数2,195枚。みなボタ山の下にあった炭住こと長屋の炭鉱住宅に住んでいた。被写体となった住民の追跡は至難だった。誰しもが炭鉱出身だったことを貧困の象徴として恥じて、その後の人生は筑豊地方から切り離されていた。
表紙の少女は父親と姉妹で3人暮らしだった。貧困のため学校にも通わず、蝋燭に火を灯しての生活。やがて父親は好きな焼酎の飲み過ぎが祟って他界。その後は児童相談所経由で、出稼ぎに出て行方不明になっていた母親のもとに引き取られて筑豊を離れていった。結局のところ、少女は太平洋に面した港町で、3人の子供を育てて70代を迎えていた。インタビューには登場せず、代わって長女が母親のその後を語った。きっと人前に出る気持ちになれなかったか、出れる体調にはなかったのだろう。母親は娘たちに筑豊時代や写真集を語ることはなかった。幼い頃に手伝っていた居酒屋を営む祖母と、一緒に暮らした父。その二人の供養の重要さを説き、自分が死んだら遺骨をボタ山に撒いて欲しいと言うのみだった。何故か母親は除かれている。当時を知る数人が番組に登場したが、皆さん80〜90代。取材としては時間的に限界ギリギリだっただろう。それにしてもこの番組をカバーしているウォン・ウィンツァン「夜明けのまなざし」は本当に美しい曲だ。この番組の扱う重厚なテーマに、より深みを与えている。https://www.youtube.com/watch?v=iU26cJbDSMg
土門拳先生は母校である横浜翠嵐高校の大先輩である。高校の偉大な先輩と言えば、文句なしに作曲家の高木東六先生(1904〜2006)と、写真家の土門拳先生(1909〜1990)であった。直近で言えば大前研一先生(1943〜)と、同期の新浪剛サントリー社長(1959〜)くらいか。大先輩の遺した魂の記録、改めてその歴史的な足跡を噛みしめ直した。