「アメリカのSサイズ」
高校の修学旅行、ハワイに行きました。アホみたいに暑くて、でもじめじめしていなくて、滝みたいにスコールが降って、でもすぐ晴れて虹が出て、町は英語だらけで、いろんな色の髪や肌や瞳の人がいて、まさに異国でした。
車は右車線を走っていました。バスの中でうとうとして、ハッと起きるたびに「あ! 事故る!」と勘違いしたものです。ちなみに、そのあと日本でバスに乗った際にも「うわぁ! 左車線だ! 危ない!」と勘違いしました。マクドナルドのLサイズドリンクがバケツみたいなサイズ感で現れるような、あの土地は完全に日本ではありませんでした。
そんなハワイのコンビニで、八重さんはアロハシャツを買いました。
ABCストアに大量のアロハシャツが売っていたのです。数ドル(1000円以下)だったかな。そんな値段で、通気性抜群さらさら異国情緒たっぷりシャツが買えるなら、そりゃ買うってもんですよね。3着ほど買いました。
で、何サイズを買ったか、という話ですよ。Sサイズです。いまだにあのシャツを着れるので、八重さんの体型でもアメリカではSサイズだということになります。ぎりぎりアメリカのMかもしれませんが、日本ではLかLLですから、そもそもの基準が違うんですね。
Mはミドル、つまり中くらい、ということです。大体普通、ってことですね。Mサイズのサイズ感が異なるということは、アメリカの普通と日本の普通は違うってことです。国によって普通ってのは違うんですね。
……ちょっと待ってください。それでいいのかな。「国によって」だけですかね。男女でもMサイズのサイズ感は違います。「男女でも」普通が違うってことでいいのかな。年齢によってもサイズ感って違いますよね。他は?
みんな背の高い家庭、みんな背の低い家庭、それぞれで普通が違います。
朝ごはんは必ずお米という家庭、必ずパンという家庭。看護師の生活リズム、教員の生活リズム。キノコが苦手な人得意な人、卵が苦手な人得意な人。
もしかして、普通ってひとりひとり個人個人で違うんじゃないですかね。
ってことは、「普通」ってなんなんでしょうか。
八重さんはね、「『普通』なんてない」と思ってます。もっと言ってしまえば、「幻想だ」「呪いだ」とすら思ってますよ。あなたはどう思うかな。
障害者について考えるとき、「障害があるって不自由そうだ」「みんなと同じ生活をするにはどうしたらいいんだろう」と考えがちです。
第一段階はそれでいいんですけど、そこで止まるともったいないなあ。
背の低い人、「背が低いなんて不自由だね」と言われたらどうかな。眼鏡の人、「目が悪いなら同じ世界を見れてないんだね」と言われたらどうかな。「これが自分の『普通』だ」って思うでしょ。「同じ生活」だって、望む人と望まない人とがいるんじゃないかな。困ってることを助けてくれるのは助かるけれど、不自由だとか「普通」じゃないだとか決めつけられて嬉しいのかなあ。
以前、NHKのバリバラを見ていたら、電動車いすの人や介助者が出ていました。お互いに理解がないと電動車いすは長い距離も上り坂もぐいぐい進んでしまいます。介助者はそれに対して、疲れたな、なんで私を置いていくんだろう、と思うはずです。これはお互いの「普通」が違うからです。
生まれた時から身体障害があってずっと電動車いすの人は、その電動車いすの速度が「普通」の移動速度です。疲れないので休憩しないことも当たり前です。一方、徒歩の人は速度がそこまで出ませんし、歩けば疲れます。
じゃあ電動車いすはズル? 体力のある人や歩くのが速い人と何が違う?ただの車いすの人から見た健常者もズルい? 誰の「普通」が基準なの?
このように個人が互いに向き合うことには、「普通」という言葉が邪魔です。「普通」でないものを敬遠や排除したり、「普通」であろうとして苦しんだり、そんなものはないほうがいい。と、八重さんは思う。(あくまで八重さんは、ね。だから、普段は「普通」って言葉を意図的にあまり使わないようにしています)
身長、体重、容姿、学力、性格、趣味、障害、その他あらゆる場面で「普通」に捕らわれそうなとき、思い出してほしい。「アメリカのSサイズ」を。
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