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2024年夏バルカン半島周遊その4(コソボ編)
早くもティラナを離れ、長距離バスで山道を進む。都市郊外の渋滞を抜け、今回のバルカン周遊の実質的な最終目的地、コソボに到着した。
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プリシュティナのバスターミナルは中心街から少し離れたところにある。今回の宿は中心街の北側にあるので、そこまで歩くことにした。幹線道路を渡り、団地を抜けていくと、ビルの壁面に巨大なビル・クリントン元大統領のポスターが現れた。
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「ヨーロッパで最も若い国」コソボは、2008年にセルビアから独立を宣言した。セルビアの一部でありながらアルバニア人が多数派を占めていたこの地域は、旧ユーゴ連邦においては「コソボ社会主義自治州」として、他の連邦構成国と同程度の自治権を与えられていた。ティトーの死去とともに民族主義が高まると、コソボに居住するセルビア人とアルバニア人の対立は再び深まり、1990年セルビア大統領スロボダン・ミロシェヴィッチによって自治権が剥奪されると、遂にその分断は決定的となった。コソボではイブラヒム・ルゴヴァによる平和的な抵抗運動が一時は支持を集めたものの、アルバニア人たちの不満は収まらず、1997年秋以降には武装闘争によってコソボの独立を目指すコソボ解放軍(UÇK)による活動が激化、セルビア側の掃討作戦もエスカレートしていった。1999年2月、フランスのパリ郊外ランブイエで行われた和平交渉が失敗に終わると、当時のアメリカ大統領クリントンはNATO軍によるセルビア空爆を決断、翌3月からベオグラードを含むセルビア各地への空爆が行われた。この結果ミロシェヴィッチは和平案に合意、コソボはセルビアの自治州としての地位を回復し、国連コソボ暫定行政支援団(UNMIK)が民生面の支援、KFOR(NATO主体の国際部隊)が治安維持の支援に当たることとなった。NATO軍によるセルビア空爆をいち早く決断し、「コソボを救った英雄」として、上掲のようにプリシュティナには今もクリントンの像が立ち、通りの名前にもなっている。
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上述の通り、コソボの主要構成民族はアルバニア人である。このため町中にはアルバニア国旗が翻り(コソボの国旗より多いぐらいだ)、目抜き通りにはアルバニアの英雄スカンデルベグの像が立っている。一方で、コソボに残るセルビア人は極めて少数派だ。近年は目立ったテロなどは起きていないが、地方選挙での対立をはじめ、未だその対立は根深い。
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プリシュティナ到着翌日、西部の町ペーヤに行くためプリシュティナ駅へ向かった。コソボは国土が小さいということもあり、プリシュティナからであれば主要な町へはバスで1~2時間程度で移動できてしまうのだが、今回はどうしても鉄道を利用したくて、本来バスで1時間のところを2時間かけて鉄道で行ってみることにした。現在北マケドニア方面に行く路線は休止中のため、これでコソボの鉄道は完乗したことになる。
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列車はコソボの大地をゆっくりと進んでゆく。1日2往復の列車だが、意外にも利用客は多く、あちこちの駅で乗降があった。とはいえ、プリシュティナやその近郊、終点のペーヤ駅以外は平原のど真ん中や山奥の駅で、駅舎も屋根が崩落していたり、そもそも建物がなかったりと整備は全くされていないようだった。道路インフラが整備され、高速道路網も広がりつつあるコソボでは、鉄道のプレゼンスはそれほど高くないのだろう。実際、隣国アルバニアでは昨年、国鉄が全面的に運行を休止しており、中小国における鉄道インフラの維持がいかに難しいかを物語っている。
プリシュティナから2時間かけて辿り着いたペーヤは、ビールの名前でも知られるコソボの主要観光地のひとつである。今回の目的は郊外にあるペーチ総主教修道院だ。
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ペーチ総主教修道院は、その創立年代こそはっきりしないものの、13世紀中頃に正教の大主教座が移ってきたことにより発展した。1346年にセルビア正教会がコンスタンティノープル総主教庁から独立したことで、ペーチ修道院は総主教座に昇格した。内部には全面にフレスコ画が残されており、世界遺産「コソボの中世建造物群」の構成遺産のひとつでもある。
ペーヤの市街地に戻ってプリズレン行きのバスに乗り込み、途中のデチャンで下車、そこから20分ほど歩いて次の目的地へ向かう。デチャニ修道院である。
デチャニ修道院は14世紀に創立された修道院で、ビザンツ、ロマネスク、初期ゴシックの折衷様式や、保存状態の良いフレスコ画で知られ、これまた世界遺産に指定されている。デチャンの市街地から修道院までの道、そして修道院の入口にはKFORの検問所が設置されており、このうち後者では手荷物とパスポートを預ける必要がある。
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この翌日にはプリシュティナ郊外にあるグラチャニツァ修道院も訪れた。ビザンツ様式の建築やフレスコ画が美しい修道院で、こちらも世界遺産に登録されている。
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コソボの主要構成民族であるアルバニア人はムスリムが多いのに対して、これらの修道院はセルビア正教の建物である。また、例えばペーヤ総主教修道院がセルビア正教の「総主教座」であったように、セルビア人はこのコソボの地を自らの民族的ルーツとして捉えている節がある。当然これらがアルバニア人過激派の標的にならないはずはなく、実際デチャニ修道院ではかつて手榴弾が投げ込まれる事件や、ロケット砲が撃ち込まれる事件も発生している。上述の通り、各修道院にはKFORの検問所が設けられている他、外壁上には鉄条網が巻かれているなど、非常に物々しい雰囲気だった。また、山奥に位置するペーチ総主教修道院やデチャニ修道院に対して、セルビア人が集住する町の真ん中に位置するグラチャニツァ修道院の周りは、電柱という電柱にセルビア国旗が翻り、ビルの壁面にはセルビアの政党のポスターが貼られているなど、コソボとしてはかなり特異な光景だった。これらの世界遺産は危機遺産にも登録されており、今回行かなかったもう一つの構成遺産リェヴィシャの生神女教会は2004年の暴動で焼き討ちに遭うなど、民族・宗教対立の緊張感、そしてそれらが「現役」であることを感じさせる。
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グラチャニツァ修道院を後にして、今度はプリシュティナ北郊のガズィメスタンに向かう。1389年オスマン帝国とセルビア公国が激突したコソボの戦いのあった場所で、1953年にはこの戦いを記念した塔が建てられている。
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この戦いでセルビアはオスマンに敗北し、以後500年に渡ってセルビアはオスマン帝国の支配を受けることになった。セルビア人はこの戦いを外敵に対する民族統合の象徴として位置づけ、民族叙事詩などでも語り継がれていくことになる。旧ユーゴ時代にはミロシェヴィッチがここで演説を行ったことでも有名で、上述の修道院と同じくこの地もセルビア人にとってある種のルーツとされているのである。これらの経緯から現在この塔の敷地の周囲は金網と鉄条網で囲まれており、入場にはパスポートチェックが必要となっている。
コソボの戦いにおいてオスマン帝国は勝利を収めたものの、指揮を執っていたスルタン、ムラト1世は捕虜となったセルビア人によって殺害された。彼の遺体の一部(内臓。残りはブルサにある)は現在もこのガズィメスタン近くの霊廟に安置されており、墓守の一族が今も霊廟を守っている。
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民族対立、貧困、国際的な地位と解決すべき問題が山積みのコソボだが、一方で道路や建物が盛んに建設され、町には子供や若者が溢れるなど、若い国故の勢いも感じた。アルバニア旅行記で述べたような「均質化」が進んでいくのはいち旅行者としては少し残念な部分もあるが、それ以上に今後コソボがどのような道を歩んでいくのか、興味は尽きない。次に来るときは今回行かなかったプリズレンや暑さであまり回れなかったジャコーヴァ、そして民族対立の最前線ミトロヴィツァにも行ってみたいものだ。
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プリシュティナでは、数年前からエアポートバスが運行されている。かつては固定料金20ユーロのタクシーでしか空港にアクセスできなかったが、観光地化に力を入れているのか徐々に便利になってきているようだ。一方、バス停の整備は追いついておらず、市街地から乗ろうとしたがバス停を見つけることができなかった。この辺りは今後改善されていくのかもしれない。
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プリシュティナ空港は非常に小さかったが、多くの人々が訪れていた。旅行者はもちろん、出稼ぎのコソボ人もいるのだろう。いずれにせよ、活気のある国であることは疑いようがない。次にこの地を訪れる数年後が楽しみだ。
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