海の博物館(三重県鳥羽市)
お彼岸に向かって、身の回りの人が何人も亡くなっていく。
そういうタイミングなのか。
別れは突然やけど、いつでも死ほど多くを語り、生きているものたちに学びを置き土産にしていくものはない。今日は涙が止まらない。
大学進学とともに三重県を離れたため、ほとんど郷里の三重県のことを知らない私だが、三重県にこんな偉業を成されている方がおいでなんだと、東京在住の頃、「海の博物館」の建築とともに石原義剛 館長の存在を知った。
それから私のようなものがありがたいご縁をいただき、著書本「いのちをつなぐ海のものがたり」の展覧会をさせていただいたこともある。
多くを語らない寡黙な佇いの中に、情の厚さと人格者を感じる方だった。
海や海にまつわる歴史、文化を愛し、人生のほとんどの時間をそれら継承にかけ、気高く偉業をなされた三重県、日本の宝だとおもいます。
最後にお目にかかったのは、3年前、九州の友達を案内した時だった。誰を案内しても、「海の博物館」は感銘してくれた。
その帰り、1時間に1本しか鳥羽駅行きのバスが確かなくて、帰宅ついでだからと車で送迎してくださり、記念撮影を一緒にとっていただいた。あの時もほぼ何も話さずに駅まで見送ってくださった、あんなに無言の中でやさしさが伝わってくる人はいない。車から降りて手を振ってくださった、あの時の光景が昨日のように蘇り涙が止まらない。
海の本を出した時は電話で話したことがある。20冊だったかな?買うから海博まで送ってくれって威勢良くいってくれた。
それから海の本の展覧会をさせていただいた時は、搬入の後、海博のスタッフで、艦長の娘さんの真伊さんや学芸員の方と一緒に美味しい海の幸さべれる所予約くださり打ち上げくださったのだが、館長は忙しい方なので同席なんて恐れ多いし期待もしてないのに、挨拶くださった、「僕もご一緒したいが行けなくてすんませんな。ゆっくり美味しいもん食べてってください」と。
セルフレームの眼鏡やスーツも、髪型もいつでも知的でダンディでお洒落だった。
東京の大学出身で、もともとテレビ局にお勤めだっったからなのか、育ちも品格の良さも滲み出ていらっしゃるお方だった。洒脱という言葉がぴったりだった。
多くを語らず、その生き様で多くを語られた。決して信念を譲らない、子供が好きだった、情が厚く人格者という印象が私の中にある。そして海人を愛された方。
数回しかお目にかかっていないのに私の細胞に刻まれたものがある。
ただただ残念で仕方がない。
ほんとうに長い間お疲れ様でした。こんなに数回しかお目にかかってない私が涙が止まらないのは、館長の人柄のせいだ。
去年の7月からの入院生活で、まだまだたくさんやり残したことがあり、
最後まで復活を願い諦めなかったと聞いた。
大きな使命を持たれたかただったから、私もまだまだ元気でおいでと油断していた。でもこれからは天に昇って見守る役割に変わられたのだろうか。
いつまでも偉人を頼ってばかりではいけないってことなんやろうか。
私なりに館長に教えていただいたことを受け継いでいきたいと思います。
今までほんとうにありがとうございました。
安らかにお眠りください。合掌。