三文掌編②「雨とチョコとウォーキング」

 歩いて帰ることに決めたのは熱波に背中を押されたからだった。

 いい加減、涼しくなってもいい頃合なのに季節はまだ夏にしがみついていて次に進もうとしない。それでも草木や虫たちはゆっくりと秋支度をはじめている。頬を撫でる風は生温かかったが側道の草陰からは鈴を転がすような虫の音が聞こえた。

 雨上がりだからもっと涼しくなるかと思ったが、むしろ湿気が増したようで歩きはじめるとすぐにじんわりと汗をかいた。空気が熱で膨張しているようで、暗くなりはじめた幹線道路を行き交う車たちの赤やオレンジ色のライトは随分と滲んで見えた。

 家に着く二つ手前の大きな交差点、そこをいつもはまっすぐに渡って行くのだが、赤信号になりたまたま立ち止ったときに何とはなしに左側を向くと公園の緑が目に入った。今までも何度かそこに行ったことはあった。広大な敷地にたくさんの緑が植えられていて、犬を連れて散歩する人やウォーキングに来る人も多かった。彼女も休みの日になると緑を愛でにそこに歩きに行くことがあった。ゆっくり歩いて一周すると一時間以上かかる、とても広い公園だ。そこを通って家に帰ると遠回りになるが、たまにゆっくりとその道を行くこともあった。そういえばしばらく通ってなかったなと思い、信号が変わるのを待った。

 空は暗くなりはじめていたが、公園を越えた先には大きな団地があるので帰り道に通る人も多く、外灯もたくさんある。腕時計に視線を落とす。別に急いで帰る理由もない。雨も止んだことだし、と彼女は青に変わった信号を渡らず体をくるりと左に向きなおして公園へと歩みを進めた。

 互い違いになっている低い柵のような公園の出入口を抜けると、遊歩道は木々の陰で思ったよりも暗かった。曇ってはいたがまだ陽が残っているからとこちらに回ってきたが、遠回りしてきたのは間違いだったかもしれないと少しだけ不安になった。ちょうど帰宅時間に当たるから人ももっと歩いているものと思っていたが、人気はほとんどなかった。外灯の柔らかな明かりは生い茂る木々の葉たちにところどころ妨げられている。 

 緑のなかをゆっくり歩いて帰るつもりだったがいつのまにか早足になっていた。背中にかいた汗で服が体に貼りついて不快だった。家に帰ったらすぐにシャワーを浴びよう、そう思った。

 公園のなかほどまで歩いてきたとき、向こうに人影が見えた。今まで誰とも出会わなかったぶんそれが見えたときはどこかでほっとしたが、もう辺りはだいぶ暗くなっていたのでそれよりも身構える気持ちの方がすぐに強くなった。鞄を心持ちぐっと体に引き寄せた。  

 こちらに向かってくると思っていた人影は同じところに立ち止ったままのようで、もうすぐすれ違うだろうと思っているところまで来てもその姿は判然としなかった。ようやくはっきりと見えてくると、それは大きな荷物を背負った老婆だった。一所でずっと下を見たまま小さくその辺りをうろうろと円を描くように回っていた。荷物に押されるように背は丸くなってしまっていて顔は見えなかった。ゆっくりと同じ方向に小さな足取りでゆらゆらと歩いている姿は頼りなく、彼女は思わず声を掛けた。

  何かお探しですか。老婆は何も答えなかった。耳が遠いのだろうかと思い、今度はさっきより大きな声で聞いた。ようやくその声が耳に入ったのか、老婆は顎を少しだけ持ち上げ曖昧に首を振り、小声でウォーキング、といった。思わず、え、と聞きかえした。老婆の口から、散歩という言葉ではなく、カタカナでウォーキングと出たのに何だか違和感を覚えて少しおかしさを感じた。少し笑いかけるように、そうですかと彼女はいって軽く会釈をしてそのまままた歩きはじめた。

 彼女が通り過ぎると、老婆は何かを見つけたように丸まった背をさらに小さく折りたたむようにしてその場にしゃがみ込んだ。


 ようやく家に近い出入口近くまで来ると、遊歩道の真ん中に大きな水たまりが出来ていた。昼には激しく雨が降ったからそれでまだこんなに大きな水たまりが消えずに残っているのだろう、とそこを避けて茶色い円の淵に足を向けた。さっきの老婆を思いだし、ウォーキング、と呟いて小さく笑いながら視線と落とすと、そこに何か光るものが見えた。

 目を眇めて近付きしゃがみ込んでみると、安っぽいセロファンに包まれたチョコレートがひとつ落ちていた。四角くてトランプのダイヤのマークが描かれている。それを目にした途端、彼女の口から、見つけた、という言葉が漏れていた。口にしながら自分で驚き、それでも手はもうチョコレートへと伸びていた。手にすると自然と笑みがこぼれた。どうしてこんなにうれしい気持ちになるのだろう。子どもの頃に食べていたものによく似ているからだろうか。

 すぐそばの、チョコレートが溶けたような薄茶色い水たまりには彼女の姿が映っている。その姿は、背が丸まり大きな荷物を背負っている。

 彼女は笑みをたたえたまま立ち上がり、そしてまた歩きはじめた。


zunzunさんより頂きました「雨とチョコとウォーキング」で書きました。

原稿用紙6枚也。

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