三文掌編④「青春とロックと2014年」

 三連単、1―8―2。もうそれに賭けるしかなかった。

 真冬のくそ寒いなか、でかい穴の開いた靴下にサンダルでこんな時間まで残ってたってのにここで負けて帰るわけにはいかねぇ。でも掌には五十円玉が一枚だけ。どうしたもんかと髪を掻き毟っていると、いつも飲み屋で一緒になる名前も知らない常連仲間が通りがかった。俺はもう何も考えずにそいつの肩を叩いて縋る目で見つめた。

 この最終レース締め切り前の切羽詰まった時間だ。相手も俺が何をいいたいのかすぐにわかったんだろう。渋い顔で首を振った。

 頼む、頼むよ、と拝むように手を擦り合わせて頭を下げる。この年の瀬にすっからかんで帰りたくねぇんだよ。じゃぁどうしてそんなになるまで賭けちまうんだよ、しょうがねぇ奴だなぁ。だってよ、途中までは勝ってたんだよ。それがさっきのレースで賭けた奴が落車しやがってよ、もうたまんねぇよ。今年最後のレースだしよ、やっぱりこの最後に賭けたいんだよ。

 こいつには何度か金を借りていた。それもまだ返していない。嫌がられるのも覚悟の上で平身低頭、何度も頼む頼むを繰り返していると、しょうがねぇなぁ、がやっと出た。

 やった、これで最後のレースも賭けられる。そう思ってこころの隅でほくそ笑むと、でもおまえ、前のも返してくれてないだろうと案の定いわれて苦笑いを返すしかない。

 じゃぁ何かくれよ、とそいつはいやらしい顔になって笑う。こいつは俺に何もあげられるようなものがないのを知ってていっているのだ。

 仕方なくポケットをまさぐってみたりするが、くしゃくしゃのレシートが何枚かと五十円玉が入っているだけだ。俺が今、身につけているもので人にあげられるものなんかあるものか、と思い、はっとする。ダウンの下に着ているTシャツを思い出して思わず胸に手をやる。いや、でもこいつにこれのよさがわかるわけもない。でも、他にあげられるものなんてねぇし。

 どうした、やっぱりないか。それじゃちょっと金も貸してやれねぇなぁ。いつも貸してばっかりじゃ俺だってとんだ善人だよ。ふぇっふぇっふぇ、と笑いながらそいつは券売機の方に歩いて行こうとする。俺の焦りをどこかで見ているかのように、場内のスピーカーから投票締め切り三分前です、と流れてくる。それが本当の三分間じゃないことはとっくに知っているがそれでもやっぱり気は焦る。俺はそいつの腕を掴んで、これをやるよといってダウンのチャックを下ろした。

 でかい口から長い舌がべろっと出てあっかんべーをしているみたいな柄を指差す俺を、そいつはポカンとした顔で見た。え、やるってその汚い服か、そういって馬鹿にしたように口の端が上がる。俺は真剣な顔で肯いて見せる。

 これはな、ただの汚い服じゃねぇんだ。日本じゃ手に入らねぇTシャツなんだよ。青春時代、イギリスまで行ってな、それで買ったんだよ。きっと今じゃお宝みたいな値が付いてるかもしれないぜ。な、頼む、ひとつこれで頼むよ。何を手放しても手放さなかったこいつをやろうっていってんだ。

 そいつは哀れんだ目で俺を見て小さく首を傾げた。俺はダウンを脱いで、それから急いで着ていたTシャツを脱いだ。そいつは目を丸くして、それから大きな声で笑って、わかったわかったよ、といった。そして財布から千円札を抜き出して俺の手に握らした。このTシャツはそんな金額じゃ足りないと思ったが、そうもいってられねぇ。俺は拝むようにその千円札をもらい、Tシャツを半ばそいつの手に押し込むように渡してから素肌にダウンを着て、急いで券売機まで行って三連単の車券を買うと足取りも軽くバンクに向かった。

 ダウンの隙間のあちこちから風が入ってきて思わず身震いする。屈強な足を持った野郎どもがちゃりんこに跨って颯爽とバンクに入ってくる。俺のストーンズが賭かってんだ。今度ヘマしたらただじゃおかねぇぞとひとりごちながら、寒さをごまかすように俺は小さな声でいつものように悪魔を憐れむ唄を口ずさむ。きっとロックは俺を見放さねぇ。


 bpm=182。あらん限りの力を出して全身をそこに没頭させる。

 そのときばかりはもう何も考えちゃいない。とにかくこの一瞬で何もかも出しきってしまわんというばかりの勢いで見えない渦を巻き起こす。音は追っているけれど頭のなかは真っ白。最初は気になっていた掌の汗も今や潤滑油のようになって指はなめらかで、まさに自由そのもの。今このときばかりは、まさに自分が世界の中心だと勘違いしてしまいそうな高揚感。何もかも邪魔だ、この体さえ邪魔だと思えてしまう。何もかも放り出してすべてが無重力のなかにあればもっと端的に音の中を泳げるのにと思う。

 ライブがはじまる前に友達が差し入れに持ってきてくれたのはダサいTシャツだった。

 何でか知らないけど親父が持って帰ってきてさ、くれるっていうんだよ。おまえ、今日のステージで着ろよ。今時、ストーンズなんて流行らねぇよと二人で笑いながら冗談で袖を通して今そのままステージに立った。

 あとどれくらい俺はこの渦のなかに立っていられるのだろうか。目を突き刺すライトとライトの隙間におっさんになってもこのTシャツを着てここに立っている自分の姿が見えたような気がして思わず口元が緩む。襟ぐりも伸びきってくたくたになっているダサいTシャツに身を包みながら、2014年最後の夜が明けていく。


minoburgさんより頂きました「青春とロックと2014年」で書きました。

原稿用紙6枚也。

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