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私の光る君へ〜大河「光る君へ」出会いたかった君・直秀幻想

毎熊克哉氏の好演もあって素敵だった《直秀》

 直秀の本業が、泥棒らしいと知った時、連想したのが『宇治拾遺物語』の比較的(教科書に載ってるから)有名な一文。
 直秀が、大盗賊《袴垂》なら、当然《藤原保昌》が登場し、F4とは違う《道長四天王》の一人になるのかな、と期待してたら、全体としては《平和主義》なのに、直秀には残酷な死の展開。
 以下の内容から、袴垂は《義賊》で、直秀のモデル説もあり、《道まひ》の恋のキューピッド…なのに殺されちゃう、無念。
 保昌~なんで出なかったかな❓道長四天王も…和泉式部との恋の物語《花盗人》の話なんて当然ないなぁ~小式部内侍も出てほしかった~
 その一文↓、ご存じの方多いのでは。

宇治捨遺物語「袴垂、保昌に合ふ事」
 
昔、袴垂とて、いみじき盗人の大将軍ありけり。
 十月ばかりに、衣の用なりければ、衣少しまうけんとて、さるべき所々うかがひありきけるに、夜中ばかりに、人みな静まり果ててのち、月の朧なるに、衣あまた着たりける主の、指貫の稜挟みて、絹の狩衣めきたる着て、ただ一人、笛吹きて、行きもやらず練り行けば、
「あはれ、これこそ、我に絹得させんとて出でたる人なめり。」
と思ひて、走りかかりて衣を剥がんと思ふに、あやしくものの恐ろしくおぼえければ、添ひて、二、三町ばかり行けども、我に人こそつきたれと思ひたけしきもなし。
 
 いよいよ笛を吹きて行けば、試みんと思ひて、足を高くして走り寄りたるに、笛を吹きながら見返りたるけしき、取りかかるべくもおぼえざりければ、走り退きぬ。
 かやうに、あまたたび、とざまかうざまにするに、つゆばかりも騒ぎたるけしきなし。
 希有の人かなと思ひて、十余町ばかり具して行く。
 さりとてあらんやはと思ひて、刀を抜きて走りかかりたるときに、そのたび、笛を吹きやみて、立ち返りて、
 「こは、何者ぞ。」
と問ふに、心も失せて、我にもあらで、ついゐられぬ。
また「いかなる者ぞ。」
と問へば、今は逃ぐとも、よも逃がさじとおぼえければ、
「引きはぎに候ふ。」と言へば、
「何者ぞ。」と問へば、
「字、袴垂となむ、言はれ候ふ。」と答ふれば、
「さいふ者ありと聞くぞ。あやふげに、希有のやつかな。」と言ひて、
「ともに、まうで来。」とばかり、言ひかけて、また、同じやうに、笛吹きて行く。

 この人のけしき、今は逃ぐともよも逃がさじとおぼえければ、鬼に神取られたるやうにて、ともに行くほどに、家に行き着きぬ。
 いづこぞと思へば、摂津前司保昌といふ人なりけり。家のうちに呼び入れて、綿厚き衣、一つを給はりて、
「衣の用あらんときは参りて申せ。心も知らざらん人に取りかかりて、汝あやまちすな。」
とありしこそ、あさましく、むくつけく、恐ろしかりしか。
「いみじかりし人のありさまなり。」と、捕らへられてのち、語りける。
 
 ~現代語拙訳~~~~~~~~~~~
 昔、袴垂といって、並外れた盗賊の首領がいた。
 十月の頃、着物が必要になったので、着物を少し調達しようと思って、(盗みをするのに)都合の良い所をあちこち探しまわったところ、夜中ごろに、人がみんな寝静まった後、月がおぼろげにかすむ中を、着物をたくさん着ている人が、指貫の袴の脇をたくし上げて帯に挟んで、絹の狩衣のようなものを着て、たった一人で笛を吹いてどんどん歩くというでもなく、ゆっくりと練り歩くので、
「ああ、この人こそ、自分に着物を与えようとして現れた人のようだ。」と思って、走りかかって着物を剥ぎ取ろうと思うが、不思議に何となく恐ろしく感じたので、後について二、三町ほど行くが、(その人は)自分に人がついてきているなどとは、思っている様子もない。

 ますます笛を吹いていくので、試してみようと思って、足を高くして走り寄ったのだが、(その人が)笛を吹きながら振り返った様子は、襲いかかることができるとは思えなかったので、走って退いてしまった。
 このように、何度もああしたりこうしたりしてみたが、(その人は)わずかばかりも動揺する様子がない。
 滅多にない人かなと思って、十余町ほどついて行く。
 そうかといって(このままで)いられようか(いや、いられはしない)と思って、刀を抜いて走って襲いかかった時に、その度に、(その人は)笛を吹くのをやめて振り返り、
「これ、何者だ。」
と尋ねるので、(袴垂は)茫然となって、我を失い、膝をついて座ってしまった。
また「どういう者なのか。」
と(その人が)尋ねるので、今は、逃げても(この人が自分を)決して逃がさないだろうと感じたので、
「追い剥ぎでございます。」というと、
「何者なのか。」と尋ねるので
「通称は袴垂と言われております。」と答えると、
「そういう者がいると聞いているぞ。 見るからに物騒で、とんでもないやつだな。」と言って、
「いっしょについて参れ。」と声をかけて、また同じように笛を吹いていく。

 この人の様子(を見ると)、今は、逃げてもまさか逃がさないだろうと感じたので、鬼に魂を取られたようになって、一緒に行くうちに、(その人の)家に行き着いた。
 (ここは)どこだろうと思うと、摂津前司藤原保昌という人(の家)なのだった。
 (保昌が袴垂を)家の中に呼び入れて、綿の厚い着物一着をお与えになって、
「着物が必要なときは参って申せ。器量もわからないような人に襲いかかって、お前が失敗するな。」
とお言葉があったのには、(袴垂は)驚くばかりで、不気味で、恐ろしいことであった。
「並外れて立派な人の様子であった。」と、(袴垂は)捕らえられてから語ったということだ。

 藤原保昌、晩年摂津の平井に住んだので、平井保昌とも。
 藤原南家の出で、曽祖父は醍醐帝という出自。弟・保輔は盗賊で獄死、父・致忠は殺人で流罪。なんとも凄まじい人生の前半だ。
 保昌の伝説を見ると、笛を吹きながら、朧月夜の都大路を練り歩くというのが、しっくりこない。一方、漂う殺気と笛の音とキラキラした衣装の、いかにも貴公子ぶりが魅力的で、忘れがたい話である。
(㊟保昌は摂津守になるが摂津守在職中に78才で亡くなるので、昔物語の一般としての、最終履歴で呼名とする系統かと考え、保昌が貴公子だった頃のことにしたい。)
 
 しかし人生の後半、8才年下の道長と出会って、運命が好転。
 次は、祇園祭実行委員会のサイトからのコピー。ただし、和泉式部に恋した時、保昌はまだ大和守、兼左馬権頭。50代。和泉式部は30代半ば。
 和泉式部と結婚し彼女を伴い、国守として赴任するのが丹後である。
 小式部内侍のあの歌が有名で↓、こうなっているのかも。
 通称「保昌山」の解説。
 
 丹後守平井保昌と和泉式部の恋物語に取材し、保昌が式部のために紫宸殿の紅梅を手折ってくる姿をあらわしている。
 御神体(人形)は緋縅の鎧に太刀をつけ、梨地蒔絵の台に紅梅を一杯にもってこれをささげている。頭は明応9年(1500)、胴は寛政(1789~1800)頃、町内に住んでいた彫刻師勇祐の作であるという。前懸の緋羅紗地に蘇武牧羊図、胴懸の張騫巨霊人に鳳凰虎を配した刺繍は円山応挙(1733~95)の下絵である。
 近年それらを復元新調している。下絵は別に屏風に仕立て保存している。見送は福禄寿、弁財天に唐子を配した綴錦で寛政10年(1798)の作、水引は雲龍波濤文様に鳳凰鶴虎を配し、特に孔雀の羽根を縫込んだ刺繍の逸品である。また、平成23年にご神体引敷が新調された。山の故事にちなみ宵山には「縁結び」の御守りが授与される。

小式部内侍のあの歌【有名すぎますが、本当にかっこいい】
 大江山 いく野の道の遠ければ まだふみもみず天の橋立

 その小式部内侍は20代の若さで亡くなってしまう。
 その時の和泉式部の歌が、千年を超えて、何度も私を泣かせてくれる。

 とどめおきて 誰をあはれと思ふらむ 子はまさるらむ 子はまさりけり

 私達を残して永遠に旅立った娘よ 今頃誰を哀れと思っているだろう 
(親より)子供への思いが増さるでしょう 私も子供が恋しくて嘆くのだから

 拙訳はいらないが、和泉式部、恋多きお色気女房で終わったのが、つい残念で。
 嘆き悲しむ彼女のそばに、イケオジの保昌様がいてくれればと思う歌。

 総集編の感想も書きたくて、つい今週も。    


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