人間てほんと強欲だよな
ベンチに座っていた男子二人の前を通りかかったとき、一人がため息混じりにつぶやいた。
「人間てほんと強欲だよな」
この言葉が頭に刻まれた。
そもそも、人は強欲なのか。
強欲は悪いのか。
強欲は治るのか。
このことについて、聖書が教えていることを書かせていただきたい。
①人はそもそも強欲なのか
人は神によって、「神のかたち」に造られた。
それは、神に似た性質をもって、神が造られた他の生き物を治めるためだった。
また、人は神の命令を守り、互いに愛し合い、助け合って生きるように造られた。
神が造られた世界は、平和と正義と秩序のある非常に良い世界だった。
さて、人は神の命令を守るように造られたが、神が人に与えた命令に、一つの禁令があった。
それは、「他のどんな木からでも好きなだけ取って食べてよい。しかし、善悪の知識の木からは食べてはならない。その木から取って食べるとき、あなたはかならず死ぬ」という禁令だった。
そこに、惑わす者、サタンが現れた。
サタンは、女を巧みに惑わし、神のイメージを操作し、神に不信感と疑念を抱かせ、「善悪の知識の木から食べても、あなたは決してしなない。食べるとき、あなたは神のように賢くなると神は知っているのだ」と言った。
女は、善悪の知識の木の実を見た。すると、その木の実は食べるのに良さそうで、目に慕わしく、賢くしてくれそうで、実に好ましかった。
女は食べて、男にも与えた。男も食べた。
そして、2人は死んだ。
与えられているすべてのものに満足せず、禁じられているものにまで手を伸ばしてしまった人間は、やはり強欲だと言えるだろう。
②強欲は悪いことなのか
善悪の基準は神にある。つまり、神の命令に従うことが善であり、神の命令に背くことが悪である。強欲は、あらゆる悪の根となる。
最初の人間アダムとエバも、「神のように賢くなりたい」という強欲が、神の命令を破った原因であった。しかし、サタンは、人間に強欲を起こさせる前に、神への不信感と疑念を生じさせる必要があった。なぜなら、人の必要は神によってすべて満たされていて、人の心も神さまの恵みによって満たされていたからである。
人が神を信頼し、神によって心が満足しているならば、神の命令を破るほどの、強くて暴力的な欲望が人の心に入り込む余地はない。しかし、神への不信感は、心に不満をもたらし、強欲が入り込むスペースを作ってしまう。神への信頼と強欲は、反比例の関係で、信頼がなくなるほど、強欲は増し、神に背いて欲望のままに行動してしまうのだ。
その結果、人は死んだ。
死には、大きく分けて、2つの意味がある。
肉体的な死と、霊的な死である。
神さまが、「善悪の知識の木から食べるとき、必ず死ぬ」と言われたときに意味していたのは、後者の霊的な死である。
人は、「神のかたち」に造られたということを思い出してほしい。それは、神に似た性質を持ち、他の生き物たちを治めるためであった。
つまり、人の存在の本質は、他の生き物たちと明らかに違い、人はただ物質的な存在であるのではなく、霊的な存在でもあるのだ。
神は霊的な存在である。だから、神のかたちの人間も、本来、霊的な存在である。そのため、霊的とは何かを知るためには、神を知る必要がある。
人は死んだ。つまり、霊的ないのちを失った。そして、神は霊的に死んだ人間を、永遠に生きさせることを良しとせず、肉体的な死を与えられた。
③強欲は治るのか
人間の歴史を通しても、自分の内面や生き方を顧みても、強欲は消えることがないことが証明されていると思う。
しかし、先に書いたように、強欲は、神への不信感と反比例の関係にある。よって、神への不信感が神への信頼へと変わるなら、強欲の力は弱っていく。
つまり、強欲は治る。もっと正確に言えば、欲望に支配されずに自制することができる。
そのための鍵は、神への信頼である。
そのためには、サタンが操作している偽りの神のイメージから抜け出し、真実な神の姿を知る必要がある。
「私が神だ」と色々な声が聞こえてくる。けれど、聖書は書いている。
イエス・キリストは目に見えない神のかたち、だと。
つまり、イエス・キリストは、目に見えない神の完全な現れ。だから、キリストを知ることは、神を知ることなのだ。
キリストはどんな生涯を歩んだか、ご存じだろうか。
初代教会の中で共有されていた「キリスト讃歌」なるものがある。それは、新約聖書のピリピ人への手紙の2章に記されているが、このような内容だ。
「キリストは神であるのに、ご自分を低くして、人間となり、死にまで、しかも十字架の死にまで従われた。」
キリストは、私たちを罪と死から救うために、私たちのために十字架にかかって死んでくださった。
これが、人に対する神の愛なのだ。
ご自分のひとりごさえ与えてくださったのだ。それはつまり、すべてのものを与えるほどに、神は人を愛しておられるということだ。
この愛を信じて、神のみもとに立ち返るとき、人は生き返る。