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アダムとキリスト

聖書を読んだことがない人でも、アダムという名前と、キリストという名前は知っている(正確には、「キリスト」は名前ではなく、「油注がれた者(つまり、王)」という意味の称号)。

どちらも聖書に出てくる人物だが、この両者の繋がりは知られていない。

アダムは、この天地の創造主なる神が初めに造られた人間である。神は人に被造物を治める責任を与えたが、アダムは神の命令に背いてしまった(善悪の知識の実を食べた)。

キリストは、アダムの子孫として生まれ(私たちを含めてすべての人間が当てはまる)、ダビデ王の子孫として生まれたが(正統なイスラエルの王)、ユダヤ人は彼を拒み、異邦人(ローマの総督ピラト)の手に引き渡して、十字架にかけた。死後、墓に葬られ、3日目に復活して、弟子たちの前に現れ、栄光のうちに天に上られた(復活の目撃者、また証人である弟子たちが宣べ伝えた。ちなみに、このキリストの苦難と栄光は旧約聖書で予め告げられていた)。

では、この両者の繋がりとは何か。

キリストの弟子の1人パウロは言う(新約聖書の「ローマ人への手紙」の中で、パウロが書いている。

「アダムは来たるべき方のひな型です」

ひな型とは、「実物を小さく型どった物。すなわち模型」と辞書で説明されている。

つまり、アダムはキリスト(来たるべき方)を指し示している模型なのだ(予型と言った方が意味が明白。アダムはキリストを予め示している、ということ)。

これは外見のことを言っているのではなく、その特異な立場のことを言っている。

アダムは人間の代表者の立場に置かれた。そのため、アダムの罪はすべての人間の罪となり、すべての人間が死に支配されるようになった(死は罪の報いである)。

しかし、キリストは新しい人間の代表者の立場に置かれた。キリストの完全な義が、キリストを信じるすべての人間の義となり、すべての人間がいのちにあって支配するようになった(死に支配される側ではなく、いのちにあって支配する側に移された。これは、神の創造の秩序の回復)。

つまり、アダムにあってすべての人間は死に、キリストにあってすべての人間は永遠のいのちを持つ。

「永遠のいのち」は、単なる不老不死のことではない。魂が天国に行って、お花畑で永遠に過ごすことでもない。

朽ちない肉体が与えられ、罪から解き放たれ、喜びと平和のうちに神と隣人を愛し、神が造られた良い世界を治める存在に造り変えられるということだ。

中国人も韓国人も日本人もブラジル人もフィリピン人もベトナム人も、世界中のありとあらゆる民族のすべてが、アダムに属し、罪人とされ、死に支配されている。

しかし、キリストを信じるなら、誰でもキリストのうちに移され、義と認められ、永遠のいのちを受ける。(キリストを信じるとは、単にキリスト教に入信することではなく、キリストを自分の主とすること)

それぞれの文化、個性、アイデンティティが生き生きと活かされ、世界を豊かに彩っていく。その世界にもはや暴力も差別も不正も存在し得ない。なぜなら、神は主イエスをこの地に遣わされ、キリストにあるすべての者を救い、万物を回復させるからだ。

救われるために必要なことは、あなたの努力でも良い行いでもない。人間が自分で自分を救うことはできない。けれど、すべての人を救う神の恵みが現された。

イエス・キリストはただ一人の義人。私たちの背きの罪のために死なれ、よみがえられたお方。

このお方を信じてほしい。そうすれば、あなたは救われる。あなたの創造主は、恵みに満ちていることを知ってほしい(恵みとは、受けるに値しない者に差し出される無償の恩恵)。

神はあなたを知っておられ、あなたの罪や失敗に関わらず、あなたを愛している。

「一人の違反によってすべての人が不義に定められたのと同様に、一人の義の行為によってすべての人が義と認められ、いのちを与えられます。」







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