「運命は勇者に微笑む」
将棋の羽生善治さんの座右の銘と言えば、「玲瓏」の2文字を思い浮かべる人が多いと思うし、実際公式サイトなんかを見ていても、この言葉がきちんとした座右の銘になっているのだけれど、確か昔の羽生さんのそれは、「運命は勇者に微笑む」というものであったはずだ。
かつて、小学生の頃に専門誌を読みあさっていたときには、この「運命は~」の一言が羽生さんと共に紹介されていたので、間違いなく、ある時期までは、羽生さんの座右の銘は、「玲瓏」ではなかったはずなのだけれど。
さて、この「運命は勇者に微笑む」という言葉は、実は羽生さんのオリジナルの言葉らしいのだけど(それも記憶に依るものなので、確かなことではないのだけれど)、この言葉を初めて目にした時は、正直何を言っているか分からなかったし、「そういうもんか」くらいに、将棋界の第一人者の考えていることは分からん、みたいに思っていたのだった。
しかし、この言葉を知ってから15年くらい経つのだけれど、ようやくこの言葉の意味するものが、自分なりに見えてきた気がする。
この言葉が言わんとしていることは、恐らく「勇気を持って前に進んだ人、行動した人のみが見える世界、知ることができる世界、得られるものがある」ということで、投資の世界で言う「リスクを取る」ことと「リスクプレミアム」の話を、羽生さんなりの言葉で言い表したものなんじゃないか。
将棋を指していると、時間が限られている中で、先まで全て読めない中で自分の指し手を選ばないといけない局面が多く出てくる。
自分も相手も、考えることに使える時間が切迫していて、1手を30秒や1分以内に指さないといけない、という状況が多々ある(この時間内に手を指さないと、自動的に自分が負けてしまう)。
こういうときに、普通は「どんな手が最善なのか」ということを考える。ここで言う「最善」とは、その手を指せば自分が一番勝ちやすい、あるいは一番均衡を保てる、という手で、時間が十分にあれば見つけ出すことはそこまで難しくはないものだ。
しかし、使える時間が限られていると、最善の手が一体何なのか、というのが分からない状態で、指し手を選ばないといけないときがある。
もちろん、手が茫洋としていて分からない、という状態はそう多くはなくて、よくあるのは、「攻めの手を指すか、受けの手を指すか」という、二者択一での選択を迫られるようなことである。
かつて、僕がもっと盛んに将棋を指していた頃は、こういうときは「恐らくこう指すほうが最善なんだろう」と感じた手を、攻めの手でも受けの手でも関係なく指していたのだけれど、今、少し将棋を指すことから距離を置きながら考えるのは、こういうときは、間違っているかもしれないけれど「攻めの手を指す」というのが、恐らく勝負としては理にかなっているし、逆転が起こりやすいんじゃないか、という風に考えている。
というのも、将棋というのは自分との戦いでもある一方で、相手との戦いでもあるわけだけれど、「最善手を指す」というのが、自分との戦い(ある意味では「真理の追究」)である一方で、目先の相手との戦いに勝たなければならない、という状況でもあるわけだ。
そして、人間同士の戦いにおいては、力が拮抗している場合は特に、「自分にとって最善が分からない」という状態では、得てして相手も「どのように指すのが最善なのかは分からない」という状態でもある。
そして、そういう場合においては、受けに回るよりも攻めに回るほうが、勝負のアヤは増えるし、実際勝ちやすいものなのだ(相手の攻めをふりほどくより、自分の攻めを繋げて相手に迫るほうが、実践心理的にはストレスが少ないのが事実)。
だから、「運命は勇者に微笑む」というのは、仮にそういう局面に出くわしたときに、最善が分からなくても前に進んでみる、というのが、恐らくその局面における「勝負」としての最善手でありなると同時に、この先の長い(人生という)戦いを考えた時にも、最善手にほぼ近い選択になると思うのだ。
というのも、仮に「攻めの手」を指して、自分が勝つことができれば、それは事実として良く受け止められるし、仮に負けたとしても、「受けの手」を指してサンドバッグを殴られ続けながら負けるよりも、心理的な負担は大きく軽減されている筈である。
そして、その局面で「前に進む」ことで、相手も間違える可能性がある、勝負を混沌とさせることができる、という感覚を実際に掴むことが、次回以降の勝負でも役に立つことが、多いにある。
投資の世界で言われる「リスクとリスクプレミアム」というのは、「自分が損をするかもしれないし、得をするかもしれない」という、言わば標準偏差の両極への移行可能性と、「得をした場合」に、相応のリターンを得られることを意味しているわけだけれど、これもそもそも、「行動を取る(リスクを取る)」ということをしなければ、どちらに転ぶかどうかが分からないわけで、結果として得をすれば、それだけのリターンを手にすることができる、ということになる。
どんな世界においても、行動をせずにただ指を口にくわえて見ている、あるいは守りに入ってしまっては、運命には微笑んでもらえないんじゃないだろうか。
勇気を出して前に進んだからと言って、運命が微笑んでくれるとは限らない。かといって、勇気を出して前進しないと、運命は絶対に微笑んでくれない。そして僕たちは、運命に微笑んでもらいたいために、生きているわけでもないだろう。
羽生さんのあの一言は、生き方を問うものだったのだ。