都市に住んでいると身体性が拡張したような気になる
この渦中の中、ヨーロッパから帰国をした。
2週間は自宅待機が必要なので、今はずっと家にいる。
実家に部屋があるのでそこにずっと籠もっているけれど、僕の地元は、相当の地方都市で、かつ家が中心にもないので、普段買い物に行くにせよ、外出して人に会うにせよ、何かと不便なことが沢山ある。
そんな中、特に不便だと思うのは「食事デリバリーの少なさ」だ。
ハンガリー(の首都・ブダペスト)では、Woltというフードデリバリーアプリ(UberEatsのようなもの)があって、自宅から一歩も出ずに食事をドアの前まで届けてもらうことができる。
が、当然地元にはそういうサービスはないし、数少ないデリバリー対応のお店も、いちいち電話をして注文をしなければならない。アプリだと、そこに表示されるメニューを英語に翻訳をすればシームレスに注文から配達までされるので不便ないのだけど、電話で注文をするとなると、そもそもメニューに何があるのか分からない。多分電話をして、まずは大まかなメニューになるのだろうか。何かと不便そうである。
まあ、地元が不便なのは今に始まったことではないんだけれど、海外にいてもこれまでデリバリーなんか使ったことなく、この数ヶ月で、在宅でデリバリーサービスを使えことの便利さに気づいたわけだ。
で、この便利さ・不便さの違いって何なのかというと、「身体性の拡張度合い」なのかな、と思う。
「身体性の拡張」というのは、例えば車を運転する、ラジコンを操縦する、ゲームのコントローラーを操作する、といった動作を通して、「実際の自分の身体ではないけれど、その延長上で、擬似的に体を動かすこと」だと定義できると思う(他にも定義のしようはあると思う)のだけれど、都市部に住むことは、もしかしたらこの「身体性の拡張」というのが、相対的に起きやすい場所なのかな、と、ふと考えた。
フードデリバリーなんか、スマホで注文をすれば勝手に食事が届く。もちろんその裏には多くの方の努力があるのは間違いないけれど、例えていうなら、ゲームのコントローラーで操作をしているようなものじゃないか。
あるいは、オンラインで注文をして自宅まで自動的に運んでもらえる宅配サービス(Amazonとか)。まあこれは、都市部でも地方でもあまり変わらないとは思うけど、都市部のほうが配達にかかる時間が短いのは事実だろうし、「操作をすればすぐにやってくる」という意味では、これも身体性の拡張と言えるんじゃないか。
僕の地元は、言っちゃあれだけど何かと不便だ。最寄りの銀行に行くにも自転車を出さないといけないし、買い物に行くにせよ、車か自転車が必要。
まあ、これらの器具を使うことも立派な「身体性の拡張」には変わりないのだろうけれど、この数ヶ月で「室内に籠もる」ことが新たなスタンダードになってしまった感があるから、そういう意味では、「コントローラーを使って身体性を拡張する(できる)」ことが、新たな利便性の指標の1つになったんじゃないだろうか。
別にコントローラーで身体性を拡張するにとどまらないとは思うけれど、「目的の行為にたどり着くまでに必要な工数が少ない」ことが、利便性の指標の1つなのかな、と。
地方にいると、車で買い物に行くときでも
1.鍵を用意する
2.カバンを用意する
3.駐車場まで行く
4.車を運転する
5.お店で買い物をする
6.また運転して自宅に帰る
………と、工数が実は多い。
これが、オンラインで注文して届けてもらえるなら、
1.ネットで調べる
2.注文する
3.自宅で受け取る
の3つの工数で済むから、相対的に便宜が良いのは間違いないと思う。
そこから拡げて考えてみると、駅から近い部屋に住む、物理的導線が少ない経路で移動する、といった工夫も、「身体性の拡張」を考える際の重要な要素の1つなのかな、とも思う。
東京のような大都会に住んだことがないことと、そういう場所にはあまり住みたいとも今後は思わないけれど、「住む場所」を考えるときに、「身体性がどれくらい拡張するか」ということは、物差しの1つとして大事にしていこうか、と、ふと思った。
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