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他人事の社説

Column~№41
 ある新聞社の社説にトランプ新政権について「イエスマンばかりでは危うい」という見出しで人事に対する意見を述べていた。
 社説は1つの意見であり社として何を言おうが、個人がどんなコメントをしようが基本的には自由だと思っている。ただ社説は綺麗事ばかりだと思っているので記事は読んでも社説に目を通すことは基本的にはない。
 私は多様性の社会でいろいろな考え方がある中、自分の意見を持つことは賞賛すべきだと思っている。しかし自分の意見こそが正しいと言う社説の主張は少し傲慢だと感じている。
 先も述べた通り社説で何を言おうと勝手だが敢えて取り上げたのは批判のルールに反すると考えたからだ。批判するにも私はルールがあると思っている。そのルールの1つが自分のことは棚に上げて批判することだ。このような批判は提言ではなく暴言でしかないと思っている。
 この新聞社の全社員と面識があるわけではないが私の知る限りではこの社の記者は基本的にイエスマンだと思っている。と言うのもコロナ禍の時に「上司が……」とか「部長命で……」とか口にしていたのを記憶している。自分がコロナウィルスとどう向き合うのかではなく、社や上司の顔色を窺っていた。社の幹部としてこのような発言があったのをご存じないのだろうかと社説を見て感じた。
 この社だけでなく企業という組織ではイエスマンでなければ出世は望めない。仮に出世を望まなくても社内では生きずらいだろう。全社員とは言わないがどの企業でも上司の命に従うことが求められ、従わない者を歓迎する組織は少ないと思う。
 また人材募集に関しても多様性のある幅広い人材の募集を掲げるが、入社した途端に組織が望む人材色へと強要される。自分がやりたいことや思うことを抱いて入社しても、その大志を貫き通せる環境を与えている企業はそう多くはない。したがって大志を抱く社員の意見を尊重しているのはベンチャー企業などの一部の企業くらいではないだろうか。
 私もイエスマンが良いとは思っていない。自分で考えて行動することが大事だと思っている。そんな意味では兵庫県知事選挙において有権者がSNSなどで情報を自分で調べたことは賞賛すべき行動だと思っている。偽情報の問題を指摘する声もあるが偽情報も情報であり、自ら情報に接するからこそ精査が求められる。したがって偽情報を危惧する指摘を否定しないが、この指摘で自ら情報を摑みに行く行為を止めるべきではないと思う。

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本郷矢吹
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