ドラゴンはなぜダサいのか?
ドラゴン(龍)はかっこいい。有無を言わさずかっこいい。
爪牙するどく、空を自在に舞い、ときには超能力を操ってみせるドラゴンは、数多の創作物において、その昔から現在に至るまでファンタジックな生物のハイブランドを保ったままだ。
しかしながら、これがことファッションに至ると急に「ダサイ」のレッテルを貼られてしまうことがある。
家庭科の授業で扱う生地として選ばれるプリントのドラゴンや、あらゆるお土産屋で売られているキーホルダーのドラゴン(剣に巻き付いているヤツ)、そしてシンプルにTシャツに描かれるドラゴン……、これらを、成人した大人がその身に纏うとき、まことに遺憾ながら、いとも簡単に「ダサい」と言われてしまう現実がある。わたしもダサイとつい思ってしまう。
でも、それはなんでなのか。
ドラゴン自体がダサいわけではない。それは確かだ。
昨今、爬虫類ブームは勢いを増しているし、ドラゴンの姿形を取り上げて「角と翼で色合わせるのは安直すぎw」みたいなことを言う人は少ないと思う。
じゃあ、ドラゴンを身に着ける人が「ダサい人間」であることが多いために、ドラゴンまでもがダサくなってしまっているというのだろうか?
これも何か違う。なぜなら、ドラゴンのシャツを着こなせる人間など、どこにもいないからだ。因果関係が逆である。ドラゴンを身に着ける人がダサイのではない。ドラゴンを身に着けるのはダサイから、あまりいないと解釈すべきだ。
ここですこし自分の幼少期に戻って考えてみよう。
男子の多くは幼少期にドラゴンに魅了された。わたしと同世代である男子は、冒頭で書いた「家庭科の授業で扱うドラゴン柄の生地」や「剣に巻き付いたドラゴンのキーホルダー」に馴染みがある人が、少なくないはずだ。
だが、わたしたちは小学校の高学年、もしくは中学入学へ差し掛かるあたりから、ドラゴンを身に着けるのをやめたのではないだろうか?
いっぱしに服を選ぶようになる。ドラゴンやキャラものの服を排除し、スポーツブランドや、無地のものなどを身に着け始めるのだ。
また、このタイミングでついでに半ズボンもやめる。ズボンという言い方もやめるかもしれない。デニムを買う(Gパンではない)。ユニクロに行く。
ふと街を見渡すとドラゴンはいないのだった。
派手な柄シャツの兄ちゃんを時折目にすることがあっても、ドラゴンはいない。テレビに映るタレントの服のなかにもドラゴンはいない。
ここで、はじめてわたしたちはドラゴンが現実社会に息づいていないことを知るのだ。ドラゴンは誰にも似合わないアイコンらしい。
でも「似合う」とは何だろうか?
思春期に突入したわたしたちは「ダサい(と思われる)こと」を恐怖し始めるが、反面、何がオシャレなのか、何が似合うのかということも全然わかっていないから、ひとまず減点を避ける戦術を採用した。これが無地宗であり、その総本山がユニクロや無印良品というわけだ。つまり「主張しない(出過ぎた真似をしない)=ダサくない」という風にひとまず考えたわけである。
そこへいくとドラゴンは明らかに主張するアイコンなのだ。
そのうえでドラゴンが似合う人間になるには、ドラゴン自体が何を主張しているのかという部分に耳を傾ける必要がある。そして、それに似合う人間にならなければならない。
私が考えたところ、ドラゴンは、どうも2つの大きな主張をしているようだ。
①暴力性
一つは獣としての「暴力性」である。ドラゴンは暴力的である。王妃を攫ったり、町を焼いたりするのだ。
例えば、大阪のおばちゃんが、トラの顔がでかでかとプリントされたシャツものすごく着こなしている(?)ことがある。それは、大阪のおばちゃんの暴力性(?)とトラの肉食獣としての暴力性とが共鳴しているからに他ならない。トラの根拠が、おばちゃんの内面性に見いだせることによって、私たちはその取り合わせに納得する。
しかし、ドラゴンに至ると、暴力性だけでは解決しない。
大阪のおばちゃんだってドラゴンは手に余る。
それはドラゴンが要求するもう一つ主張に起因している。そして、それこそが、おそらく、ドラゴンをわたしたちから最も遠ざけている要因に違いない。
②非実在性
周知のとおりドラゴンは空想上の生物なのである。化石等の根拠によって、かつて存在したことが確定している「恐竜」などをはるかに凌ぐ非実在性だ。
頭の中で大阪のおばちゃんにドラゴンの服を着せてみようではないか。
そこまで悪くはないが、トラやライオンの方がマッチする気がするな。それは、ドラゴンが暴力的でありながらも、空想の中でしか生きられない非実在性を持った儚げな存在だからだ。大坂のおばちゃんが儚いということなどはありえない。実存の権化だ。上記のように「大阪のおばちゃん」と書いてみるだけで、その容姿・髪形・服装・振る舞い、はたまた声質に至るまでを誰もが容易にイメージできてしまう。これではドラゴンは似合わない。
空想上の生物であるドラゴンは、現実世界で自らの実在を主張した瞬間に、「非実在性」が担保するところの神秘を喪失する。それはドラゴンの魅力の最も重要な点を殺してしまうからだ。
つまり、ドラゴンの似合う人間は、「暴力的でありながら、非実在性を持った存在」である。
現状で最も近い答えを、僕は一つ用意している。
任侠者である。
刺青と龍(ドラゴン)の相性の良さは、既に周知の事実であるから、これはその根拠を説明しているに過ぎない。
「反社会的勢力」というのは呼び名の通り、日本の法律上、表だって社会に存在することが難しいアンダーグラウントな存在だ。また、同時に彼らは「暴力団」の名称が表すところよろしく、基本的には暴力を扶持に生活する人々である。
ドラゴンはとどのつまり、何なのだ?
なぜ僕らは一時はドラゴンに憧れ、そして、瞬く間に離れて行ったのか?
ドラゴンとは無限の、制御し得ない、そして現実感を持ち合わせない欲望の象徴なのではないか。
先述したように、ドラゴンはその圧倒的なパワーで、町を焼いたり、生贄を攫ったり、金銀財宝を略奪したりする。自分の欲望を力任せに満たそうとする。
そして、子どもの大半は快楽主義者なのだだ。自分の言い分が通らないと癇癪を起こし、ショッピングモールのど真ん中で暴れる。しばしば我が子を愛着を込めて「怪獣」と表現する人がいるが、まさしくそうなのだ。自らのワガママを通すべくがんばっている怪獣少年が、他の一切を暴力で征服しつくすドラゴンへ憧憬を抱くというのは、尤もなことだ。
だが、その憧憬も思春期に差し掛かる頃、終わりを告げる。
クラスメートには自分よりうんとすごいヤツがいる。思い切って好きな女子に告白したらあっけなく振られてしまう。勉強してみれば授業だけでは理解の追いつかないところが出てくる。息抜きにネットを覗いてみたら、同い年でベラボウに絵の上手い化物のようなひとがいる。
我々はさまざまな挫折と絶望を通じて、自分という存在を社会のなかで相対化していくのだ。
「ぼく、わたしは万能ではない」という当たり前のことを知る。知りたくないのだが、突き付けられる。だからこそ、ちょっとやさしくなったりもする。自分と同じように生きている他者が厳然と存在していることを理解できるようになる。それは「圧倒的な力」などでなぎ倒せないし、また、なぎ倒していいというものではないことを、理解する。
少年のなかのドラゴン(欲望)は尻尾を巻いた。
生きていれば、悟りを得ない限り欲望に終わりはないが、しかし、それを達成するための手段として「暴力」を主軸に人生を全うすることは無理なのだ。
わたしたちはドラゴンにサヨナラをしてユニクロへ行く。はじめてデニムの裾上げをしてもらう。なぜかアホほど緊張した記憶がある。
やがてドラゴンは穴倉に封印され、深い深いねむりについた。
だが、死にはしない。幼稚な欲望は、他の理性やら愛やらの現実生活に立脚した強固な魔法でもって封印されているに過ぎない。
だが、そうして眠らせていたはずのドラゴンは時折目を覚ますことがある。
魔法の抑制が効かなくなったり、むしろ、すべてを焼き尽くせというとき、彼らは目を覚まし、存分に暴れる。
それは朝のニュースのなかでテロップとして全国中継されていたりする。
ドラゴンを抑えつける魔法の強大さの方をよく知っている私たちは、それを見て非情にも「だっせ」と思ってしまうのである。
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