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私の人生 幼少期編

お久しぶりです。こんばんは。しおんです。

あ、ジャケ写は私です。2年前に人生初被写体モデルをしたんですよ。初めてのチームラボで素敵な写真をたくさん撮っていただきました。

今回は生まれたて〜未就学児までの私の幼少期です。
就活で自己分析ってあるじゃないですか。そこで幼少期から振り返った方がいいと言われたので、私の人生を具体的にふりかえってみました。


まず最初は私の中にある記憶から。
いちばん古い記憶は2歳の頃です。
2歳の記憶は3つですね。
①当時は福島県在住だったので家族全員で大内宿に行きました。その時はまだ父親が家にいたので、楽しい日々をすごしていました。
帰る時、父親にだっこされ、左肩から顔を出していました。
すると、左側を歩くおじちゃんがいたんですね。距離は30〜40m離れてたかな。そのおじちゃんと目が合って手を振りました。すると、そのおじちゃんは手を振り返してくれたんです。しかもそのおじちゃんが志村けんさんに似てて。最近まで本人では?と思ったのですが調べたら2004年の大内宿にはいなかったそうです。。。2013年はロケでいたそうなのですが。。。


②両親と私3人で、山形県のさくらんぼ狩りにいきました。その時の記憶を話します。
まず、郡山インターに乗った記憶です。左側の後部座席にチャイルドシートを乗っけてたのでそこに載っていました。
高速道路にのると、カーナビの画面表示が変わるじゃないですか。高速道路専用になって「𓏸𓏸出口あとこんぐらい」みたいな。今はスマホの方が多いのでもしかしたら分からない方がいるかもしれないですが。
当時、私はカーナビの矢印がでかくなったのを見て大泣きしました。理由はわかりません。当時の私に聞かないとわからないので。まぁ原因はカーナビの矢印がでかくなったことに対する恐怖でしょうね。なんで怖いんだよって話ですけど。
無事山形県について、さくらんぼ狩りをしました。終わって、さくらんぼを育てているおばあちゃんからさくらんぼ味の飴をもらった記憶があります。

③当時、母が働いていたアパレルショップの記憶です。
入口の左側に立っていましたね。白いタイルの床が頭部から近かったので2歳の記憶かなと。
わたしの右側にセンターわけのスーツを着た男性がいました。その男性はとてもにこにこしていたので、母と一緒に働いていた社員さんかなと。それ以外の記憶はないのですが、そこだけなぜか覚えています。
愛されてたんですね、私。(笑)

というのが、今私が記憶に残っている過去です。
さて、今から私が知っている限りの幼少期をお話しします。

出身は福島県ですね。
爆誕したのは郡山市の病院です。
そこで一瞬だけ郡山に住んで、すぐに須賀川市に引っ越しました。
父の実家が須賀川なので、実家に暮らすことになりました。
そこから近くの保育園、幼稚園に通った感じです。

母の両親は和歌山県に住んでいたので、年に1回帰省していました。和歌山の方は高齢化率が高い地域だったので、地域住民の方からもかわいがってもらっていました(過去に私の発言から変な噂が漂いましたが・・・)。和歌山の方は個人店をしていたので、正月には毎年福島の方に鯛を送ってくれてましたね。


はい、今から少し暗めというか複雑な気持ちになる話をします。

わたしの本名の意味は、「家族に大反対されるも、こだわってしまっている父が押し切って役所に提出したのでよくわからん」ということです。なんか大反対されたそうです。父はわがまま王なので、その反対を押し切って役所に届けたそうです。これを聞いたときは改名して野郎と思ったのですが、大好評なので変えずにつっきってやります。
で、活動垢の下の名前は「母が付けたかった名前」だそうです。内容は聞けなかったのですが、母が付けたかった名前なので「じゃあ活動垢はこっちで名乗るか」となりました。
わたしの本名って結構珍しい名前で、同じ名前にあった人は女性の中だとだれもいないです。男性だったら高校時代に1人いて、高校生活初日に「えええ!?同じやん!!えぐううううう!!!!!」となりました。ちなみに入学した高校はマンモスレベルの中高一貫だったので、「よく見つけたな。。」と(笑)
まあ、すぐわかるか。。。

もっとすごい話をします。

なんと、この私、2歳の時に父の不倫相手を見たそうです。どうやってみたのかわかりませんが。話し合いをしたのかどうかはよくわからないです。
まあ、会ったそうです。はい。
そこから父の結婚詐欺でわたしの本名が使われました。おわりもん。結婚詐欺だとわかって慰謝料請求されたのですが、父の父(私からすると祖父)に払わせたそうです。
それに私の学資保険はないです。父が車で事故らせて廃車になったから全額使われました。そこで新車を買ったらしく。
そのぐらいわがまま野郎です。

母はとてもまじめです。本当に。いい母でした。
父から借金返済を押し付けられて、朝9時から11時まで仕事をしていました。なので、私は祖父母とテレビ見ながら母が帰ってくるまで起きていました(だから身長小さいんか。。。←ちがう)
母は祖父母のことが好きで、愚痴とかは聞いたことがなかったですね。
心から感謝している感じでした。

保育園の時から発達障害は疑われていました。
多動がかなり強かったんだと思います。
発達検査、受けてくださいと言われてました。
でも、受けませんでした。
理由は祖父の愛ですね。
祖父はわたしのことが大好きで、いつも甘やかしてくれました。
なので、「しおんちゃんはいい子だから大丈夫、なにもない」と言ってくれました。
それに、発達障害の理解がまだなかった時代でした。地域は狭いですし、福島の方は家電量販店をしていたので、地域とのつながりはとても濃いです。なので噂はほかの家庭よりすぐに広まります。
という噂話も怖いと思っていたからというのもあるのかな。。
保育園でのイベントは祖父が常にカメラを回していました。
運動会ではピストル音が聴覚過敏でうるさいから耳塞いで最下位、夕涼み会はかわいい浴衣着てはしゃぐ、クリスマス会は前に立って話すのが恥ずかしくて逃げだすのが私でしたね。(笑)
でも卒園会で言った将来の夢は「ギャル曽根」。何言ってんのほんまに(笑)
そんな何気ない日常を送っていました。今考えたら幸せですよ。本当に。

幼稚園の時を話すと、園長先生が毎朝「じゃんけんするよー!じゃんけん!」って来てました。じゃんけんはみんな好きなので、「はーーーーい!!!!!」って群がっていましたね。勝ったらなにかあるわけでもなく、毎日園長先生とじゃんけんしてました。放課後に預ける学童保育にいました。大半は利用していました。昼寝時間は先生がいなくなってからみんなでしゃべって、先生が来て全員怒られるという(笑)
その時から歯が抜け始めるようになり、初めて歯が抜けたのは幼稚園でご飯を食べて歯磨きをするときでした。みんな「え、抜けたの?みして!」と言ってきたので「んだ!抜けた!」って歯の中を見せびらかしていましたね。。。
高校の保育実習で「昼寝時間、眠くないから寝ない年長さん」を体験したのですが、「先生、ごめん」ってなりましたよね(笑)


それ以外の話をすると、母と一緒にフラダンスを習っていました。
・・・といっても私はあまり興味を示さなかったそうなのでひたすら英語を勉強していました。しまじろうEnglishもやっていたので、その教材を使いながら勉強してましたね。。。
これは小学生か幼稚園か忘れたのですが、夏休み中に家族でいわき市にあるハワイアンズに行き、舞台の上でフラダンスを披露した記憶。。。
あ、ハワイアンズはフラガールの舞台です。フラガールという映画、おすすめです。また見たくなってきた。。。


って感じですね。
以上、幼少期の話でした。

次回は小学生です。
一番過酷です。
お楽しみに。


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