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子供の死(在宅医療・看取り)
その子はたった十数年の時しか生きていないのに進行癌。
もちろん高齢者ほど多くはないが子供だって癌になる。
医療者でなくても知られている事実であるが、自分が担当するとなると話は別である。
医療者といえど、この理不尽さには感情が前面に立ってしまい、冷静に理性的に対応することが難しく感じられる場面にしばしば遭遇する(小児癌を担当する方々には心より敬意を表します)
医療の目指す方向は、緩和医療を除けばすべて命を延ばす方向に向いている。
端的に言えば医療が介入することは、意図するしないに関わらず、たとえ末期の方であろうと延命することが目的となってしまうことが少なくない。
悲しいことではあるが、病気はある時期を過ぎれば医療の必要度は低下し、いつまでも医療にすがることはあまり意味がないばかりか、かえって苦しみを長引かせる結果にもなりかねない。
その時期に治療を求められてもそういったことを冷静に説明し、時にはできることさえしない決断をすべきだと思う・・のだが、私とて普通の人間、人の親である。
十数年しか生きていない我が子に、一日でも長く生きて欲しいと願う親の気持ちを、上記のような論理を盾に断念させることなど簡単にできる訳がない。
ごめんな・・心でそう言いながら、高カロリー輸液、輸血、求められればできることをすべてやった。
あるいは自分はこの子を苦しめているだけかもしれないと思いながら。
母親はもちろんのこと、時にたくさんの看取りに立ち会っているはずの訪問看護師でさえ冷静さを失い、半ばパニックで電話がかかってくることもあった。
そんな時には診療を中断しても走って行って説明を重ねた。私だって辛いんだと心の中で大声をあげながら。
みんなの心が悲鳴をあげていた。
たくさんの涙に囲まれてその子が旅立った時、削られ続けた自分の心から次々と血が流れ出るような気がした。
そしてこの傷はきっと一生治りきることはなく、何かの機会にまた血がにじみ出て来ることだろう。
重い心と身体を引きずって帰ったその夜、膵臓癌で療養中であったばあちゃんが私の自宅で息を引き取った。
もういいから、ちょっと休みなさい。
ばあちゃんの顔はそう言っているように見えた。