吐き気
第一章 発症
病院の廊下は、消毒液の匂いと静寂に包まれていた。西条隆一は、MRIの結果を待ちながら、冷たいベンチに腰を下ろしていた。
「また、吐いたの?」
隣に座った妻の美沙が、不安げに尋ねた。
「……ああ。今朝も。もう慣れたよ。」
隆一は苦笑いを浮かべながら、手元の紙コップの水を一口飲んだ。しかし、そのわずかな水分すら胃の中にとどまることを拒み、込み上げる感覚に耐えるように奥歯を噛み締めた。
最初の異変は半年前だった。深酒をした翌朝、激しい吐き気に襲われた。それ自体は珍しいことではなかったが、その後も断続的に吐き気と嘔吐が続いた。最初はストレスや食あたりかと思い、市販の胃薬でごまかしていた。だが、次第に症状は悪化し、食事がまともに取れない日が増えた。
「原因は何だと思いますか?」
美沙は医師に詰め寄るように尋ねた。
「まだ確定診断ではありませんが……脳腫瘍の可能性があります。」
その言葉が落とす影は、あまりに濃かった。
第二章 診断
「中枢性嘔吐……?」
医師の説明は、隆一にとって耳慣れない言葉の連続だった。
「嘔吐中枢が刺激を受けることで発生する嘔吐です。脳圧が高まると症状が出ることがあり、脳腫瘍や脳出血、髄膜炎などが原因となることもあります。」
「でも、頭痛はほとんどないんです。ただ、吐き気が……。」
「脳腫瘍の種類や位置によっては、頭痛がない場合もあります。あなたの場合、小脳近くに腫瘍があるため、内耳への圧迫が原因で嘔吐が引き起こされている可能性が高いです。」
頭の中が真っ白になった。腫瘍。手術。抗がん剤。治療のことを考えようとするほど、現実感が遠のいていく。
「治りますか?」
美沙の声が震えていた。
「手術で腫瘍を摘出できれば、症状は改善する可能性があります。ただし、場所が場所だけにリスクもあります。」
隆一は、無意識に拳を握りしめていた。
第三章 手術
手術の日が決まった。成功率は七割。とはいえ、脳を扱う以上、何が起こるか分からない。医師は「吐き気はなくなるかもしれませんが、運動機能や言語能力に影響が出る可能性もあります」と慎重に告げた。
「やるしかない。」
隆一は静かに覚悟を決めた。
手術室に入る前、妻の手を握った。
「戻ってくるから。」
「……絶対にね。」
美沙の瞳には涙が浮かんでいた。
第四章 目覚め
ぼんやりとした光が目蓋の向こうで揺れていた。全身が鉛のように重い。
「……っ!」
突然、吐き気がこみ上げる。体を動かそうとするが、まるで思い通りにならない。
「落ち着いて、大丈夫だから!」
美沙の声が聞こえる。しばらくして、ようやく意識がはっきりしてきた。
「……成功した?」
「ええ、先生はうまくいったって。」
「そうか……。」
目の奥に鈍い痛みを感じたが、奇妙なことに、あの絶え間ない吐き気は消えていた。
第五章 新しい日々
退院してしばらくはリハビリの日々だった。言葉が少し回りにくくなり、歩行のバランスも崩しやすかったが、時間をかけて回復していった。
そして、あの地獄のような吐き気が消えたことが、何よりの救いだった。
「なあ、美沙。」
「ん?」
「また、どこか旅行に行こう。乗り物酔いの薬を持たなくてもいい場所にさ。」
美沙は微笑んだ。
「ええ、行きましょう。」
長い苦しみの先に、ようやく新しい人生が待っていた。