癒合
序章
薄曇りの朝だった。冬の名残を感じさせる冷たい風が、川沿いの遊歩道をゆるやかに流れる。遠くには工場の煙突が見え、その先には静かな住宅街が広がっていた。
杉田尚人(すぎた なおと)は、川に架かる古びた鉄橋の上で立ち止まり、欄干に手をかけた。手のひらの傷痕が、冬の冷たさでじんわりと疼く。昔、転んだときにできたものだったか、それとも別の理由だったか——もう思い出せない。ただ、それが治る過程を見つめていた日々のことだけは、はっきりと覚えていた。
「傷は、いつか癒えるのかな」
独り言のように呟いた言葉は、風にかき消される。
第一章
尚人は医者だった。手術室の無機質な光の下、メスを握り、切り開き、繋ぎ合わせる。組織を縫合し、血流を確保し、骨を正しい位置に戻す。傷はやがて癒合し、患者は元の生活へと戻っていく。
「先生、ありがとうございました」
そう言って退院していく患者たちを見送るたび、尚人の胸の奥には、言葉にならない空洞が広がった。患者の身体は治るのに、自分の心はなぜ治らないのか。
彼は過去に、最愛の妹を事故で失っていた。幼い頃からずっとそばにいた唯一の家族。助けられなかったという罪悪感は、どれだけ時間が経っても彼の中で疼き続けた。
「どうして癒合しない傷があるんだろう」
尚人は、そう思いながらも手を動かし続けた。
第二章
ある日、病院に一人の女性が訪れた。
「先生、診てもらえますか?」
彼女は久保田美咲(くぼた みさき)。手の甲に深い傷があり、縫合が必要だった。
「どうされました?」
「ちょっとした事故で……でも、もうどうでもいいんです」
尚人はその言葉に、ふと手を止めた。
「どうでもいい……?」
「ええ。どうせ、傷なんてまた増えますから」
美咲は笑ったが、その瞳は凍りついたように冷たかった。彼女の言葉の裏に、尚人はかつての自分を見た。
美咲は仕事も家族も失い、生きる意味を見失っていた。心に負った傷が癒えることはないと思っていた。
尚人は、彼女の手の傷を縫合しながら言った。
「傷は、放っておくと癒着することがあります。でも、ちゃんと処置すれば、きれいに癒合することもあるんです」
「……癒合」
「時間がかかるかもしれません。でも、必ず治るものもあります」
尚人は、まるで自分自身に言い聞かせるように、美咲の傷を丁寧に縫い合わせた。
第三章
それから、美咲は時折病院を訪れるようになった。
「先生、今日はこの指が痛くて」
「傷とは関係なさそうですね」
「そう? でも、なんとなく先生に診てもらいたくて」
最初はただの患者だった。だが、尚人にとって彼女はいつしか特別な存在になっていた。彼女もまた、心に深い傷を抱えていた。そして、それは尚人自身の傷と呼応するようだった。
ある日、美咲は尚人にこう言った。
「先生は、人の傷を治してばかり。でも、自分の傷は誰が治してくれるんですか?」
尚人は答えられなかった。
だが、美咲の言葉は確かに彼の心の奥深くに届いていた。
終章
春が来た。
川沿いの遊歩道には、桜が咲き始めていた。尚人は、美咲と並んで歩いていた。
「先生、私ね、まだ傷は癒えてない。でも……少しずつ、良くなってる気がする」
「……俺もだよ」
尚人は空を見上げた。冬の冷たさに閉ざされていた空気が、少しずつ温もりを取り戻している。
傷は完全に消えるわけではない。それでも、人は生きていける。傷があったとしても、その上から新しい何かを重ねていける。
「癒合って、時間がかかるんだな」
尚人はそう呟いた。美咲は微笑みながら、尚人の手のひらにそっと触れた。
彼の手の傷痕は、もう痛くなかった。