強くなる
第一章 回旋
田中悠介(たなか ゆうすけ)は、肩を落としながらジムの更衣室にいた。三十五歳。営業職。毎日、電車に揺られ、パソコンと向き合い、ノルマに追われる日々。その結果、腰痛が悪化した。整体師に「外腹斜筋が弱ってますね」と言われたのが三ヶ月前。それ以来、彼は週二回のトレーニングを欠かさない。
「体幹の回旋は重要ですよ」
トレーナーの言葉を思い出しながら、彼はケーブルマシンの前に立つ。ロープを握り、体をひねる。右へ、左へ。単調な動きの繰り返し。しかし、彼にとってはこれが自分を取り戻す時間だった。
会社では、上司の機嫌をうかがい、顧客の言いなりになり、ただ流されていた。だが、ジムでは違う。汗をかき、筋肉を意識し、自分の意志で動く。この「回旋」が、まるで自分の人生を修正する行為のように思えた。
第二章 側屈
「もう無理だって」
妻の美咲が、テーブルの向こうでそう言った。
「悠介、私たち、もうダメだと思う」
会話がうまくできなくなったのは、いつからだろう。仕事に追われ、疲れて帰宅し、テレビを眺めるだけの夜。美咲もパートで忙しく、すれ違う時間が増えた。
「話し合おうよ」
「何を? もう何回も話したじゃない」
美咲はコップを置き、冷えた目を向けた。悠介は何も言えなかった。彼女の言葉は、まるで体を横に傾ける動作のように、じわじわと重みを増していった。側屈のように、彼の心を傾かせる。
外腹斜筋の役割は、ただ体を動かすことだけじゃない。バランスを取ることだ。もし鍛えていれば、こんなふうに簡単に崩れたりしなかっただろうか。
第三章 腹圧
会社の朝礼で、部長が大声を張り上げている。
「売上目標を達成できなかった部署は、責任を持って改善策を出すように!」
悠介は黙って資料をめくる。胃が痛い。肩に力が入り、呼吸が浅くなる。腹圧を高めることは、内臓を守るために重要だとトレーナーは言っていた。でも、彼の心は押し潰されそうだった。
会議室に呼び出され、叱責を受ける。言い訳はしない。耐えるしかない。
「お前、いつまでそんな中途半端な仕事してるんだ?」
言葉が突き刺さる。頭が真っ白になる。
ジムのトレーニングを思い出した。プランクをしながら、腹圧を意識する感覚。自分の芯を強くする感覚。今こそ、それが必要なのかもしれない。
悠介はゆっくりと息を吸い、腹に力を入れた。
「……すみません。すぐに改善策をまとめます」
自分の声が、思ったよりしっかりしていることに気づいた。
第四章 強化
別居が始まった。美咲は実家に戻った。悠介は一人暮らしを再開した。
変わらずジムに通う。体は確かに変わってきた。鏡に映る自分の姿。肩が開き、腹筋がうっすらと浮かび上がる。
「いいですね。ちゃんと外腹斜筋、ついてきてますよ」
トレーナーが微笑む。
その夜、久しぶりに美咲からメッセージが来た。
「今、どうしてる?」
スマホを握りしめる。
変わった、と言えるだろうか。強くなった、と言えるだろうか。
彼はゆっくりと指を動かし、返信を打った。
「鍛えてるよ。いろいろ」
送信ボタンを押す。
その瞬間、彼は確かに感じた。
自分の人生が、確実に回旋し、側屈し、そして新たな腹圧を持ち始めていることを。