江戸時代の非公認遊郭「岡場所」とは


江戸時代には、幕府公認の遊郭である吉原に対し、非公認の私娼屋が集まる地域が存在していました。それが「岡場所(おかばしょ)」と呼ばれる場所です。今回は、岡場所の歴史や特徴、そしてその消滅に至るまでの背景について詳しくご紹介します。

岡場所とは?

岡場所とは、江戸時代における非公認の遊郭を指します。幕府の許可を受けて運営されていた吉原とは異なり、岡場所は庶民が気軽に利用できる安価な私娼屋が集まった地域でした。この「岡」という言葉は、「外」や「傍ら」を意味し、吉原のような公認の遊郭から外れた場所であることを表しています。

岡場所は1751年から1789年にかけて、特に繁盛したといわれています。吉原が規則で厳格に管理されていたのに対し、岡場所は比較的自由な運営が行われており、庶民にとって利用しやすい場所でした。

岡場所の特徴と広がり

岡場所は江戸市中に100カ所以上存在していたとされ、特に以下の地域で繁栄しました:
1. 品川宿
東海道の宿場町として栄えた品川宿は、多くの旅人が行き交う地であり、岡場所も自然と発展しました。
2. 新宿
甲州街道沿いの宿場町である新宿も、岡場所が栄えた地域のひとつです。旅人だけでなく、江戸市中の庶民にとっても身近な場所でした。
3. 深川や浅草周辺
江戸の下町に位置するこれらの地域は、庶民文化が栄え、岡場所が発展する土壌が整っていました。

岡場所の形成は、需要と供給の原理による自然発生的なものでした。公認の遊郭である吉原は敷居が高く、料金も庶民には手が届きにくいものでしたが、岡場所はその対極にありました。手軽に利用できる点が、多くの人々に支持される理由となりました。

岡場所の衰退と廃絶

岡場所の存在は、幕府にとって見過ごせない問題となっていきます。特に、以下の改革が岡場所の取締りを強化する転機となりました。
1. 寛政改革(1787年-1793年)
松平定信による寛政改革は、風紀の引き締めを目的として行われました。この時期、岡場所の取り締まりが厳格化され、多くの私娼屋が閉鎖されました。
2. 天保改革(1841年-1843年)
水野忠邦による天保改革でも、風俗や道徳の改善が目指され、岡場所への圧力がさらに強まりました。これにより、岡場所の多くが廃絶される結果となりました。

幕府にとって、公認の遊郭以外での私娼行為は、治安維持や租税の観点から問題視されていたため、岡場所の存在を黙認することはできなかったのです。

岡場所が持つ歴史的意義

岡場所は江戸時代の庶民文化や風俗史を語る上で、欠かせない存在です。庶民にとって身近な遊び場であった岡場所は、経済的な背景や社会の需要によって自然に生まれたものであり、吉原のような格式とは異なる自由さや親しみやすさがありました。

一方で、岡場所の存在は幕府の支配体制と衝突し、取締りの対象となることで消滅していきました。この歴史は、江戸時代の社会制度や文化、経済の一端を理解する上で非常に興味深いものです。

まとめ

岡場所は、江戸の庶民生活において重要な役割を果たした非公認の遊郭でした。手軽に利用できる点やその自由さから庶民に支持される一方で、幕府の統治方針と対立し、最終的には姿を消しました。

現代において、岡場所の跡地や関連資料をたどることで、当時の江戸の風俗や庶民文化に思いを馳せることができます。このような歴史の断片を通じて、江戸時代の人々の暮らしをより深く知ることができるでしょう。

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