「煙の贈り物」
僕は生まれてから一度もタバコを吸ったことがなかった。それでも、戦後の混乱期において、政府から配給されたタバコは貴重な品物だった。実は、僕は決して喫煙に魅力を感じなかったが、そのタバコが思いがけず、人との絆を結ぶきっかけとなったのだ。
あの冬、僕たちは国の再建を担うため、郊外の古い寮に集められていた。寮の中は、疲労と不安、そして小さな希望が入り混じる独特の空気に包まれていた。そんな中、配給の日、僕は一箱のタバコを手にした。普段なら好奇心もなくただの紙と葉に過ぎなかったが、この時は違った。どうやら、タバコは人々の心をほぐし、距離を縮める“通貨”としての役割を果たしているようだった。
最初、隣室にいた数人の若者たちは、遠慮がちな目で僕の方を見た。だが、僕が「これ、あげるよ」と一箱を回した瞬間、彼らの表情はぱっと明るくなった。タバコという小さな贈り物が、知らず知らずのうちに仲間意識を育んでいったのだ。誰もが自分の苦労や不安を忘れるかのように、互いに笑顔を交わすようになった。
そんな中、ひときわ特徴的な人物がいた。彼の名は「君」と呼ばれていた。君は、僕がタバコを持つたびにそっと寄ってきた。何も頼まず、無言で僕の肩に手を回し、ぎこちなくも真剣な面持ちで肩を揉んでくるのだ。その行動は、まるで「どうか、僕を認めてほしい」という控えめな訴えのようであった。しかし、僕は心のどこかで、君のその無理にでも見せる親しみが、かえってぎこちなさを感じさせるのを覚えていた。
ある夜、寮の食堂で皆が談笑している中、僕はふと気づいた。タバコの分け合いによって作り上げられたこの一瞬の温もりは、単なる物質的なもの以上の意味を持っていた。君は、恥ずかしそうにもなく、むしろ素直に、僕にすり寄ってくるのだ。僕はそのたびに、「本当に俺の肩を揉んで欲しいのか?」と内心思いつつも、彼の真摯な態度に少しだけ救われるような気もしていた。
ある寒い朝、配給が途絶えたという噂が広がり、寮全体が不安に包まれた。タバコは友情のシンボルとなり、今や誰もが一箱一箱を大切に扱っていた。そんな中、君は普段以上に僕の元へとやってきた。彼はいつものように無言で肩に手を置き、しかしその目はどこか焦りを滲ませていた。僕は初めて、君の行動の裏に潜む本当の思いに気づいた。
「どうして、そんなにタバコにこだわるんだ?」と、僕は君に問いかけた。
君は一瞬、ためらった後、静かに答えた。「タバコはね、ただの煙じゃなくて、人と人との距離を埋めるものだと思ってるんだ。もし、誰かに分け合えるものがあれば、どんなに辛い時でも、温かい気持ちになれるって信じたくなる。だから…君のタバコで、少しでも仲間になれたら…」
その言葉を聞いた時、僕は初めて自分が与えていたものの価値を理解した。僕はタバコを一切吸わなかったが、その一箱一箱が、人々の心に寄り添い、孤独を少しずつ溶かしていたのだ。そして、君の肩揉みも、ただのぎこちなさではなく、真実の温もりであった。
その後、配給は再開され、寮の日常はまた元に戻っていった。しかし、あの寒い季節に交わした小さな贈り物と、君との何気ない触れ合いは、僕たちの心に深い刻印を残した。タバコは燃え尽きても、そこから生まれた絆は、今も消えることなく続いている。
僕は、今日も時折、ふと思い出す。煙に消えたはずの時間と、君の真剣な眼差しを。たとえ生涯タバコを吸わなくとも、あの一箱の贈り物が、人と人とをつなぐ奇跡のような力を持っていたことを。