一里塚の影



第一章 旅人の足跡

江戸時代のある秋の日、一人の旅人が東海道を歩いていた。名を藤吉(とうきち)といい、江戸の商家で奉公していたが、主人の厳しさに耐えかね、ひそかに故郷の尾張へ戻ることを決意したのだった。

旅の道すがら、藤吉は道端の一里塚を見つめた。榎の大木が枝を広げ、秋の陽を遮るように影を落としている。彼はその木の根元に腰を下ろし、水筒の竹筒を傾けた。

「ふう……やれやれ、一里進んだか。」

疲れた足をさすりながら、藤吉は幼いころ父と旅をした記憶を思い出していた。そのころは旅がただ楽しく、父の話す昔話に耳を傾けるのが何よりの楽しみだった。だが今は、逃げるように旅をする自分がいた。

ふと、隣に座っていた老爺が口を開いた。

「お前さん、旅慣れておらぬな?」

驚いて藤吉が顔を上げると、白髪交じりの髭をたくわえた老人が、煙草をくゆらせている。

「……まあな。」

「江戸を出たばかりか?」

「い、いや……」

藤吉はぎこちなく答えた。正直に話すのが怖かったが、相手の目はすべてを見透かしているようだった。

「まあいいさ。この一里塚を越えれば、次の宿場まではあと半里ほどだ。」

老爺はそう言うと、ゆっくりと立ち上がった。

「ここに腰を下ろす旅人は皆、少しずつ何かを捨て、また何かを拾っていく。お前さんも、そうなるといいな。」

そう言い残して、老爺はふらりと歩き去った。

藤吉はその言葉を反芻しながら、再び歩き出した。

第二章 影の男

藤吉が次の宿場へ着いたのは日が暮れかけたころだった。旅籠に泊まる銭は少ししかない。安宿を見つけて宿を取ると、粗末な夕飯を口にしながら考えた。

(本当に、故郷へ帰っていいのか……?)

奉公先の主人は厳しかったが、それでも世話になったのは事実だ。だが戻るつもりはなかった。

翌朝、藤吉はまた街道を歩き出した。昨夜の宿の主人から、次の一里塚には「影の男」がいるという噂を聞いていた。

「時々、旅人が一里塚で誰かに出会うらしいのさ。でもな、不思議なのは、その男の姿をはっきり覚えている者がいないってことよ。」

「何だって? 幽霊か?」

「さあな。ただ、その一里塚を越えた旅人は、決まって何かしらの決意を固めるそうだ。」

藤吉は半信半疑だったが、その一里塚へ向かううちに奇妙な気分になってきた。

やがて道の脇に大きな榎の木が見えてきた。そこには、確かに男が立っていた。

「お前さんか、影の男ってのは?」

藤吉が恐る恐る尋ねると、男はにやりと笑った。

「さあな。」

男の顔はどこかで見たような気がした。だが、どうしても思い出せない。

「お前さん、江戸を出て何を探している?」

「……逃げているだけさ。」

「そうか。」

男はそれ以上何も言わず、榎の木の影に消えるようにして立ち去った。

藤吉ははっとした。

「待て! お前は――!」

だが、男の姿はもうどこにもなかった。

第三章 帰路

藤吉はその後も旅を続けた。だが、あの影の男と出会ってから、心の中に変化が生じていた。

(俺は、逃げたかったのか? 本当に、帰るべきは故郷なのか?)

考え続けるうちに、彼は気づいた。

――俺は、もう一度やり直したいだけだったんだ。

逃げるのではなく、新たな道を探すべきだった。

藤吉は再び江戸へ向かう決意を固めた。

そして、帰路の途中、再びあの一里塚に差し掛かった。榎の木は変わらず、静かに旅人を見下ろしていた。

しかし、そこにあの男の姿はなかった。

藤吉はふと、あの男の顔を思い出した。

――あれは、昔亡くなった父の顔ではなかったか?

答えは風に流され、藤吉の心の中に静かに刻まれた。

榎の下に一礼すると、藤吉は再び歩き出した。

江戸の街へ戻るために――。

いいなと思ったら応援しよう!