袴田巌さんの冤罪事件と無罪判決の軌跡:58年の歳月を超えて
1966年6月30日、静岡県旧清水市で一家4人が殺害され、家に火が放たれるという痛ましい事件が発生しました。この事件で犯人として逮捕されたのが、当時30歳で味噌会社の従業員だった袴田巌さん。しかし、袴田さんは一貫して無実を訴え続け、その後の裁判と取り調べで浮かび上がったのは、信じがたい矛盾と不条理の数々でした。
プロボクサーから「犯人」へ、疑惑の捜査
袴田巌さんは23歳でプロボクサーとなり、世界チャンピオンを目指していました。しかし、2年で夢に挫折。その後、地元の味噌会社で働き始めました。この経歴が「腕力のあるボクサー崩れ」と警察に目をつけられ、アリバイがないことを理由に容疑者として疑われるようになります。
取り調べは過酷を極め、1日平均12時間以上に及ぶ厳しい追及が連日続きました。その結果、19日目に耐えかねた袴田さんは「自白」に追い込まれましたが、その自白内容には多くの矛盾が含まれていました。
「証拠」とされた衣類の謎
袴田さんが犯行を否定し続ける中、事件発生から1年2ヶ月後、味噌タンクから血の付いた衣類5点が突然「発見」されました。この衣類が袴田さんのものであり、犯行時の着衣であると検察は主張。しかし、調査を進めるうちに次々と矛盾が明らかになります。
たとえば、衣類の返り血がズボンより下に履いていたステテコの方に多く付着していたこと。また、ズボンが袴田さんの体型に合わず、実験では履くことができなかったこと。さらに、味噌に長期間漬かっていたはずの衣類の状態が不自然に良好だった点などが問題視されました。
死刑宣告、そして独房での44年
裁判所はこれらの矛盾点を十分に検証しないまま、袴田さんを犯人と認定。1968年、死刑判決が下されました。この判決により、袴田さんは44年間もの長い間、死刑囚として独房で過ごすことになります。
44年にわたる独房生活では、執行の恐怖が日々押し寄せ、袴田さんの精神は深く蝕まれました。時折自分の世界を作り出すようになり、現実と虚構の狭間で生きざるを得なかったといいます。
支え続けた姉、ひで子さん
袴田巌さんを外の世界から支え続けたのが、姉のひで子さんでした。事件当時、税理士事務所で働いていたひで子さんは、新聞やテレビ報道で弟が「犯人」と決めつけられる様子に心を痛めながらも、無実を信じ続けました。
ひで子さんは現在91歳。毎日30分の体操を欠かさず、弟の無実を信じて半世紀以上闘い続けました。「巌は常に私のそばで、私を頼りにして生きていた」と語る彼女の言葉は、弟への深い愛情と信念を物語っています。
無罪判決と失われた歳月
2014年、裁判所が証拠の信頼性に疑問を呈し、袴田さんは釈放されました。そして2023年9月26日、静岡地裁は最新裁判の結果、ついに無罪判決を言い渡しました。事件発生から58年。ようやく正義が取り戻された瞬間でした。
しかし、失われた時間は決して戻りません。袴田さんとひで子さんが共に過ごせなかった半世紀の歳月は、家族にとってあまりにも大きな代償でした。
冤罪と向き合う社会へ
袴田事件は日本の刑事司法に深刻な課題を突きつけています。証拠捏造や長時間の取り調べ、冤罪が生み出す悲劇を繰り返さないためには、私たち一人ひとりがこの問題に目を向け、考え続ける必要があります。
袴田巌さんの名誉が回復された今、私たちはこの事件を過去のものとして風化させるのではなく、未来への教訓として生かしていくべきです。それこそが、袴田さんとひで子さんの闘いが私たちに示してくれた「真の正義」ではないでしょうか。