記憶
1. 夜の街と白い靄
ビルの谷間を吹き抜ける風が、街灯の光を滲ませる。冷えた空気の中に、かすかに潮の匂いが混じるのは、この街が海に近いからだろう。秋の終わりの夜は静かで、通りを歩く人の影がアスファルトに細く伸びている。
佐倉拓海は、その影を追いながら歩いていた。革靴のかかとが舗道を叩く音が、やけに耳に響く。右手に提げた紙袋の中には、病院帰りに買った薬の箱がいくつか。
ふと、ビルのガラス窓に映る自分の顔を見て、拓海は目を細めた。頬が少し痩せた気がする。こめかみを押さえると、鈍い痛みがじんわりと広がった。
「…間脳の機能障害、ね」
医師の言葉が頭の中で反響する。
記憶が断片的に抜け落ちる症状。最近は、仕事の会議の内容すら思い出せなくなることがあった。視界が曇ることもあるし、言葉が出てこないこともある。
「ストレスが原因かもしれませんね」
医師はそう言ったが、拓海には思い当たることがなかった。仕事は順調だったし、特に大きな悩みがあるわけでもない。むしろ、何かを忘れてしまっていることがストレスになっているのかもしれない。
遠くで電車の走る音が聞こえた。金属の摩擦音が、頭の奥に鈍く響く。拓海はゆっくりと息を吐いた。
2. 失われた時間
翌朝、目を覚ますと、部屋のカーテンの隙間から弱々しい光が差し込んでいた。時計を見ると午前八時。
——おかしい。
目覚ましをかけたはずなのに、聞いた記憶がない。スーツのズボンを履いたまま眠っていたことにも気づく。机の上には書類が散らばり、昨日の夜の記憶がぼんやりとしている。
「昨日、何をしてたっけ…」
こめかみを押さえながら、記憶をたどろうとする。けれど、どうしても思い出せない。まるで、脳の一部だけが霧に覆われたようだった。
スマートフォンの画面を開くと、着信履歴があった。「優香」——昔、付き合っていた女性の名前だった。
別れてから三年、一度も連絡を取っていないはずなのに。
拓海は喉の奥が乾いていくのを感じた。
3. 夢の中の声
その夜、拓海は夢を見た。
暗い海の底に沈んでいくような夢だった。
青黒い水の中、誰かの声が聞こえる。
「拓海…」
遠くから呼ぶような声。温かく、懐かしい響き。けれど、誰の声なのか思い出せない。
水の中を手探りで進むと、ぼんやりとした人影が見えた。白い服を着た女性。髪は長く、揺れている。
「…優香?」
声を出したつもりだったが、泡となって消えていく。彼女はゆっくりと振り向いた。その顔を見た瞬間、拓海の心臓が激しく打ち始める。
——知っているはずの顔なのに、思い出せない。
目を覚ますと、額に汗をかいていた。
胸の奥に、ひどく懐かしい痛みが残っていた。
4. 間脳の扉
医師によると、記憶をつかさどる間脳がストレスによって一時的に機能不全を起こしている可能性があるという。だが、それは本当にストレスのせいなのか?
拓海はある考えに行き着いた。
「俺は、何かを忘れようとしているのかもしれない」
無意識のうちに、思い出したくない記憶を閉じ込めているのではないか。
そして、その記憶こそが、優香という名前に関係しているのではないか。
5. 記憶の形
週末、拓海は昔住んでいた町を訪れた。
懐かしい街並みを歩くうちに、ぼんやりとした記憶が蘇る。
優香と過ごした日々。小さなアパートの部屋。夜の公園。雨の日のカフェ。
そして——事故。
断片的に蘇る映像の中で、雨の降る夜道、拓海はハンドルを握っていた。助手席には優香。
赤い信号。眩しいヘッドライト。
——ブレーキが間に合わなかった。
激しい衝撃音とともに、記憶の扉が開く。
優香はその事故で命を落としたのだった。
拓海は、それを忘れようとしていた。
間脳が、彼を守るために記憶を封じていた。
けれど、記憶は完全に消えることはない。ふとした瞬間に、断片となって浮かび上がる。
6. 霧が晴れる時
拓海は静かに目を閉じた。
風が吹く。遠くで電車の音が聞こえる。
もう逃げない。
優香の笑顔を思い出す。
それは、悲しみではなく、温かさとともにあった。
——記憶は、消えない。
ただ、形を変えて、そこにあり続ける。