耳鳴り





潮騒のような音が響いていた。

それは、耳の奥のどこかで鳴っているはずなのに、遠くの波のようにも思えた。佐伯達也は駅のホームに立ち、薄暗いトンネルの先を見つめていた。電車の到着を知らせる電子音が鳴り、線路が微かに震える。だが、彼にはその音がうまく聞こえない。

聴こえているのか、聴こえていないのか。その境界が曖昧だった。

医者には「突発性難聴の疑いがある」と言われた。原因はストレスかもしれないし、あるいは何か別のものかもしれない。音がこもって聞こえたり、妙な耳鳴りがしたりする。まるで自分だけが水の中にいるような感覚だった。

電車がホームに滑り込んできた。扉が開き、乗客が吐き出される。会社帰りのスーツ姿の人々、スマホを見つめる若者、友人と談笑する女子高生。そのざわめきが、達也にはどこか遠くの出来事のように思えた。

彼はため息をつき、乗車した。



耳鳴りが始まってから、世界との距離が変わった気がする。

会話の音がぼやける。上司の指示も、取引先の声も、同僚の冗談も、まるで霧の向こうで囁かれているようだった。そのくせ、自分の心臓の鼓動や、電車の揺れの振動ばかりが妙にはっきりと感じられる。

会社の昼休み、屋上の隅でコーヒーを飲んでいると、同期の遠藤がやってきた。

「最近、元気ないな」

達也は笑おうとしたが、表情がこわばったままだった。

「ちょっと疲れてるだけだよ」

遠藤はそれ以上は聞かなかった。ただ、一緒に静かにコーヒーを飲んでいた。その沈黙の中、耳鳴りだけが小さく響いている。

「なあ、たまには気分転換しようぜ」

遠藤はそう言い残し、屋上を去った。



耳鳴りは消えなかった。

ある夜、達也は街を歩いていた。会社帰りの人々が行き交う繁華街。ネオンが光り、騒がしい音楽が流れるバーの前を通り過ぎる。しかし、その音はまるでフィルターがかかったように遠く、代わりに耳鳴りだけが強くなる。

歩道橋に差し掛かった時、足を止めた。

下を見下ろすと、赤いテールランプが連なり、ゆっくりと流れていく。どこへ向かうのかもわからない車の群れ。その光の波の中で、自分はどこにいるのだろう。

ふと、ポケットの中でスマホが震えた。遠藤からだった。

「今から飲みに行かないか?」

しばらく画面を見つめたあと、達也は返信を打った。

「……いいよ」

送信すると、少しだけ耳鳴りが遠のいた気がした。



バーの中は音楽と人々のざわめきで満ちていた。

しかし、達也にはそれがどこか別の世界の音のように聞こえた。遠藤が隣で話しているが、内容はよくわからない。ただ、その表情や声の抑揚から、彼が気遣ってくれていることだけは伝わった。

達也はグラスを傾けた。氷がカランと鳴る。その音ははっきりと聞こえた。

「なあ、お前、本当に大丈夫か?」

遠藤の声が耳に届く。その瞬間、達也は気づいた。

音が、聞こえている。

さっきまでの耳鳴りはどこかへ消え、遠藤の言葉が、音楽が、周囲のざわめきが、一つ一つ鮮明に耳に届いていた。

彼は深く息を吸った。

「……ああ、大丈夫だ」

その言葉を口にした瞬間、世界がまた少し、近づいた気がした。




バーを出ると、夜の空気が頬を冷やした。

遠藤が「じゃあな」と手を振ると、達也は軽くうなずき、ひとり駅へと向かった。歩くたびに靴音が響く。その音は確かに聞こえていた。

けれど、耳鳴りが完全に消えたわけではない。波のように寄せては引き、また静かに満ちてくる。

ふと、夜の街の明かりを見上げた。ネオンの光がぼやけ、街路樹の葉が風に揺れる。遠くから、誰かの笑い声が聞こえた。達也はそれを、まるで夢の中の音のように感じた。

改札を抜け、電車に乗る。ドアが閉まると、車内はわずかに沈んだ空気に包まれた。座席に腰を下ろし、窓の外を眺める。

暗闇の中、ちらちらと灯る街の光。それらはどこか遠い記憶を呼び覚ますような気がした。



週末、達也は海へ向かった。

久しぶりに訪れた海沿いの町。幼い頃、家族と何度も訪れた場所だった。潮の匂いが懐かしい。

堤防に座り、ゆっくりと海を眺める。波が寄せては返し、規則的なリズムを刻んでいる。

耳鳴りはまだ続いていた。

しかし、今はそれが海の音と重なり、まるで自分の中に波が生まれているような感覚さえあった。

「ずっと、この音を聞いていた気がする」

呟いた言葉は風にさらわれ、すぐに消えた。



その日から、達也は少しずつ生活を変えた。

仕事帰りに遠藤と飲みに行くことが増えた。週末は目的もなく街を歩いた。音楽を聴く時間が増えた。

それでも、耳鳴りが完全に消えることはなかった。

ある日、耳鼻科の待合室で、ふと雑誌のページをめくると「聴こえない音の向こうに」という記事が目に入った。難聴を抱えながらも音楽を続けるミュージシャンの話だった。

彼はこう語っていた。

「聴こえないからこそ、聴こえる音がある」

達也はその言葉を、何度も心の中で繰り返した。



季節が変わり、冬が近づく頃、達也はまた海へ向かった。

風が強く、波は荒かった。けれど、その音ははっきりと耳に届いていた。

潮騒の向こうに、静かな世界が広がっている。

その世界に、自分は確かにいる。

達也はそっと目を閉じた。

そして、また新しい波の音を聞いた。

いいなと思ったら応援しよう!