耳鳴り
一
潮騒のような音が響いていた。
それは、耳の奥のどこかで鳴っているはずなのに、遠くの波のようにも思えた。佐伯達也は駅のホームに立ち、薄暗いトンネルの先を見つめていた。電車の到着を知らせる電子音が鳴り、線路が微かに震える。だが、彼にはその音がうまく聞こえない。
聴こえているのか、聴こえていないのか。その境界が曖昧だった。
医者には「突発性難聴の疑いがある」と言われた。原因はストレスかもしれないし、あるいは何か別のものかもしれない。音がこもって聞こえたり、妙な耳鳴りがしたりする。まるで自分だけが水の中にいるような感覚だった。
電車がホームに滑り込んできた。扉が開き、乗客が吐き出される。会社帰りのスーツ姿の人々、スマホを見つめる若者、友人と談笑する女子高生。そのざわめきが、達也にはどこか遠くの出来事のように思えた。
彼はため息をつき、乗車した。
二
耳鳴りが始まってから、世界との距離が変わった気がする。
会話の音がぼやける。上司の指示も、取引先の声も、同僚の冗談も、まるで霧の向こうで囁かれているようだった。そのくせ、自分の心臓の鼓動や、電車の揺れの振動ばかりが妙にはっきりと感じられる。
会社の昼休み、屋上の隅でコーヒーを飲んでいると、同期の遠藤がやってきた。
「最近、元気ないな」
達也は笑おうとしたが、表情がこわばったままだった。
「ちょっと疲れてるだけだよ」
遠藤はそれ以上は聞かなかった。ただ、一緒に静かにコーヒーを飲んでいた。その沈黙の中、耳鳴りだけが小さく響いている。
「なあ、たまには気分転換しようぜ」
遠藤はそう言い残し、屋上を去った。
三
耳鳴りは消えなかった。
ある夜、達也は街を歩いていた。会社帰りの人々が行き交う繁華街。ネオンが光り、騒がしい音楽が流れるバーの前を通り過ぎる。しかし、その音はまるでフィルターがかかったように遠く、代わりに耳鳴りだけが強くなる。
歩道橋に差し掛かった時、足を止めた。
下を見下ろすと、赤いテールランプが連なり、ゆっくりと流れていく。どこへ向かうのかもわからない車の群れ。その光の波の中で、自分はどこにいるのだろう。
ふと、ポケットの中でスマホが震えた。遠藤からだった。
「今から飲みに行かないか?」
しばらく画面を見つめたあと、達也は返信を打った。
「……いいよ」
送信すると、少しだけ耳鳴りが遠のいた気がした。
四
バーの中は音楽と人々のざわめきで満ちていた。
しかし、達也にはそれがどこか別の世界の音のように聞こえた。遠藤が隣で話しているが、内容はよくわからない。ただ、その表情や声の抑揚から、彼が気遣ってくれていることだけは伝わった。
達也はグラスを傾けた。氷がカランと鳴る。その音ははっきりと聞こえた。
「なあ、お前、本当に大丈夫か?」
遠藤の声が耳に届く。その瞬間、達也は気づいた。
音が、聞こえている。
さっきまでの耳鳴りはどこかへ消え、遠藤の言葉が、音楽が、周囲のざわめきが、一つ一つ鮮明に耳に届いていた。
彼は深く息を吸った。
「……ああ、大丈夫だ」
その言葉を口にした瞬間、世界がまた少し、近づいた気がした。
五
バーを出ると、夜の空気が頬を冷やした。
遠藤が「じゃあな」と手を振ると、達也は軽くうなずき、ひとり駅へと向かった。歩くたびに靴音が響く。その音は確かに聞こえていた。
けれど、耳鳴りが完全に消えたわけではない。波のように寄せては引き、また静かに満ちてくる。
ふと、夜の街の明かりを見上げた。ネオンの光がぼやけ、街路樹の葉が風に揺れる。遠くから、誰かの笑い声が聞こえた。達也はそれを、まるで夢の中の音のように感じた。
改札を抜け、電車に乗る。ドアが閉まると、車内はわずかに沈んだ空気に包まれた。座席に腰を下ろし、窓の外を眺める。
暗闇の中、ちらちらと灯る街の光。それらはどこか遠い記憶を呼び覚ますような気がした。
六
週末、達也は海へ向かった。
久しぶりに訪れた海沿いの町。幼い頃、家族と何度も訪れた場所だった。潮の匂いが懐かしい。
堤防に座り、ゆっくりと海を眺める。波が寄せては返し、規則的なリズムを刻んでいる。
耳鳴りはまだ続いていた。
しかし、今はそれが海の音と重なり、まるで自分の中に波が生まれているような感覚さえあった。
「ずっと、この音を聞いていた気がする」
呟いた言葉は風にさらわれ、すぐに消えた。
七
その日から、達也は少しずつ生活を変えた。
仕事帰りに遠藤と飲みに行くことが増えた。週末は目的もなく街を歩いた。音楽を聴く時間が増えた。
それでも、耳鳴りが完全に消えることはなかった。
ある日、耳鼻科の待合室で、ふと雑誌のページをめくると「聴こえない音の向こうに」という記事が目に入った。難聴を抱えながらも音楽を続けるミュージシャンの話だった。
彼はこう語っていた。
「聴こえないからこそ、聴こえる音がある」
達也はその言葉を、何度も心の中で繰り返した。
八
季節が変わり、冬が近づく頃、達也はまた海へ向かった。
風が強く、波は荒かった。けれど、その音ははっきりと耳に届いていた。
潮騒の向こうに、静かな世界が広がっている。
その世界に、自分は確かにいる。
達也はそっと目を閉じた。
そして、また新しい波の音を聞いた。