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大人の階段のぼる 私は今シンデレラか?

タイトルは完全にイキりです。
まだ若者とされる私の、今の段階での所感を書いてます。

私は、幼い頃、25歳までに死ぬのだと半ば本気で思っていました。それは、死が24歳までの自分の身にふりかかるというよりも、25歳以降の自分のことが本当に想像できませんでした。
本当に昔、小学生のときなんかは、その時々の通過儀礼を無事終えて、所帯を持ったり、それなりに大事にされて働いたりといった未来予想図があったと思います。
ただ、そういった予想図は本当に私の身に起きることとして想定しておらず、「日本に住む25歳の女を楽観的に見積もった場合」という方が正しいと思います。それは25歳でなくても、何歳の場合でも同じです。

通過儀礼をクリアしようがしなかろうが、時間が過ぎ、歳をとりました。
節目を祝うイベントで粧し込むのが苦手で、嫌だ嫌だと思いながら、参加しないのも悔しくて参加していましたが、そうしたイベントもほとんどもうなくなりました。
凪のようにゆったりと日々が過ぎていくのを感じます。
たくさんの友達と仲良くあるべきとか、勉強に励むべきとか、そういった圧力も年々薄らいで、私は一体どうすべきなのか分からなくなります。だからビジネス系の自己啓発本があんなに多いのかと腑に落ちる日々です。

特に私は「かくあるべき」というのを強く意識した少女時代を送りましたから、先生がいない今、ぽつーんと1人投げ出されたような感覚を覚えます。従う相手も反発する相手もいない。
自分で自分を良い方へ導くことが必要とされながら、時代は肩の力を抜くことを推奨します。
私は力の抜き具合が分からず、力が抜けすぎて競争社会から脱落しましたが、それもやむなしという感じをみんなとってくれます。

さらに、友人で教師になった人間もいて、「先生も人間だったんだ」ということを今になってじわじわと知っています。
先生方が教えてくれた道徳もまた、人間たちが集まって考えたり、経験的に学んできたりした「人に優しくしてもらうコツ」のようなものなのだと今は思います。

つまりは正解のルートがないのだということが骨身に染みてきました。

「大人の階段のぼる君はまだシンデレラさ」というフレーズが有名な、谷本賢一郎さんの『想い出がいっぱい』という曲のサビはこうつながります。

大人の階段のぼる君はまだシンデレラさ
幸せは誰かがきっと運んでくれると信じてるよ
少女だったといつの日か想う時がくるのさ

台無しな言い方ですが、他力本願なシンデレラ願望の幼稚さを指摘していると取れます。

さて、今自分に「幸せは誰かがきっと運んでくれると信じてるか?」と問いかけてみると、私の答えは「え、信じてるかも」です。

生活を整えてご機嫌に過ごせるようになったらあとは、「幸せ待ち」じゃないか?と思っています。

「果報は寝て待て」じゃなかろうかという期待もありますし、自分1人でできることの限界も感じています。
だから、なるべく幸せイベントの発生確率を上げておく、という程度しかできないと思ってます。

まだ、半分少女なのかもしれないっすね。
自分が少女でいたいのか、大人になりたいのかもわかんないや。

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