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ザカリヤの賛歌

音声データ

詩編・聖書日課・特祷

2024年12月8日(日)の詩編・聖書日課
 旧 約 続編 バルク書 5章1〜9節
 詩 編 ザカリヤの賛歌(ルカ 1章68〜79節)
 使徒書 フィリピの信徒への手紙 1章1〜11節
 福音書 ルカによる福音書 3章1〜6節
特祷(降臨節第2主日)
慈しみ深い神よ、あなたは悔い改めを宣べ、救いの道を備えるため、預言者たちを遣わされました。その警告を心に留め、罪を捨てる恵みをわたしたちに与え、贖い主イエス・キリストの来臨を、喜びをもって迎えることができますように、主イエス・キリストによってお願いいたします。アーメン

下記のpdfファイルをダウンロードしていただくと、詩編・特祷・聖書日課の全文をお読みいただけます。なお、このファイルは「日本聖公会京都教区 ほっこり宣教プロジェクト資料編」さんが提供しているものをモデルに自作しています。

はじめに

 どうも皆さん、「いつくしみ!」
 アドヴェント(降臨節)第2週目の日曜日を迎えまして、祭壇のアドヴェントクランツにも、このように2つ目の火が灯りました。このロウソクすべてに火が灯るとき、教会は、待ちに待った「クリスマス」その日を迎えるということになります。
 今年のクリスマスは、果たして、どんな一日になるでしょうか。クリスマスは毎年教会でお祝いをしているという方々……、久しぶりに教会でクリスマスをお祝いするという方々、あるいは、今年初めて教会でクリスマスをお祝いするという方々……。今年もきっと、いろんな人たちが、教会に足を運ばれることと思います。どうか、そのすべての人たちにとって、クリスマスの日が、“新しい出会いと交わりの日”になりますように……と、心から願っています。

祈祷書改正と降臨節第2主日の詩編

 さて、それでは今日の聖書のお話に入っていきたいと思いますけれども……。皆さん、今回の聖餐式なんですが、いま、ここまで進めてきた中で、“いつもと違うところ”が一箇所ありましたね。どこだったでしょうか。
 それは、詩編の答唱の部分です。今回は、詩編ではなくて、「ザカリヤの賛歌」というのを、先ほど皆さんとご一緒にお唱えしたのでした。『祈祷書』の23〜24ページのところですね。項目としては、「聖餐式」ではなくて、「朝の礼拝」という項目の中に含まれているものです。
 今日の礼拝を準備するにあたって、この日の聖書日課の内容をチェックしてみましたところ、「詩編(126編)の代わりに、『ザカリヤの賛歌』を唱えてもいいよ」という指示が書かれていたのですね。なので、「あぁ、なるほど。そしたらせっかくだし、『ザカリヤの賛歌』を選んでみよう」と思いまして、それで、土井先生と相談したうえで、今回は、「ザカリヤの賛歌」のほうを選ばせていただくことにしたわけです。
 今日、このように「ザカリヤの賛歌」を選んできたのには、ちゃんとした理由があります。ちゃんとした……と言いますか、「なんとなくで選んだわけじゃないよ」ということなのですけれども。

 皆さんご存知のように、いま、我々の日本聖公会では、『祈祷書』の改正に向けて作業が進められていますよね。もうすぐ“この祈祷書”が、新しくなるのです。それに伴って、今年、2024年からは、試用版として出されている「新しい聖書日課」を礼拝で使うことが認められるようになりました。既に、主教座聖堂・名古屋聖マタイ教会では、今年の4月から、試験的にその「新しい聖書日課」を使って礼拝を行なっています。
 それで、今回少し、その“新しい聖書日課”の“アドヴェント”の部分を見てみたのですが、「あれ?」と、僕は一つ、気付いたことがあったのですね。日本聖公会の聖書日課は、3年周期……、「A年」「B年」「C年」というように分かれていますが、その三種類あるうちの「C年」、つまり今年のものですね、その「C年」の今日、「アドヴェント第2主日」のところの「詩編」の部分を見てみましたところ、そこには、なんと「ザカリアの歌」としか書かれていなかったのですね。先ほど少し触れましたように、いまの聖書日課では、「詩編126編、または『ザカリヤの賛歌』」というように、2つの箇所のうちどっちかを選べるようになっています。でも、“新しい聖書日課”のほうでは、「ザカリアの歌」しか選べないようになっていたのですね。つまり、詩編を選ぶ余地が無くなった、というわけなのです。

あえて「ザカリヤの賛歌」を選ぶ意義

 さぁ、どうしてなのか……。もちろん、これは別に、祈祷書改正委員会がイジワルをしているわけではありません。「せっかく『ザカリヤの賛歌』も選べるようになってんのに、結局どこの教会も、面倒くさがって詩編しか選ばへんし、もうそれやったら、次の聖書日課では『ザカリアの歌』しか選べんようにしたろ」――みたいなことではない。
 そうじゃなくて、おそらくこれは、世界の聖公会のやり方に合わせた、ということなのだろうと思われます。実は、世界の多くの聖公会においては、慣例として、聖書日課の3年目(つまり「C年」の)アドヴェント第2週目の日曜日に、「ザカリヤの賛歌」を歌う(あるいは唱える)ということが行われているのですね。日本聖公会のいまの祈祷書でも、一応選べるようにはなっているけれども、使うかどうかは、その日の司式者ないし教会の判断に委ねられているという状況。なので、今回の祈祷書改正では、世界の多くの聖公会に合わせる形で、我々日本聖公会も、これからちゃんと「ザカリヤの賛歌」を使っていこう、ということにしたのだろうと考えられるわけですね。
 さらに言いますと、この「アドヴェント第2主日」の礼拝で「ザカリヤの賛歌」を使っているのは、聖公会だけじゃないのですね。「改訂共通聖書日課(Revised Common Lectionary)」という聖書日課を採用している教派であればどこでも……、たとえばルーテル教会でも、メソジスト教会でも、改革派教会でも、長老派教会でも……、アドヴェント第2主日という日には、この「ザカリヤの賛歌」が使われています。ですので、そのような世界の様々な諸教会と足並みを揃えて、ともに同じ内容で礼拝をささげるためにも――、つまり、エキュメニカルな観点から見ても、今回の祈祷書改正・聖書日課の改正で、「ザカリアの歌」が自動的に選ばれるようになったということは、非常に意味のあることだと言えるわけなのですね。
 今回、あえて詩編126編ではなく、「ザカリヤの賛歌」を選んできたのは、そのような祈祷書改正に関する事情を皆さんにお聴きいただきたいなと思ったからです。そして何より、普段なかなか唱えることのない、この「ザカリヤの賛歌」を、アドヴェント第2主日であるこの日に、世界のさまざまな教会の人たちと共に唱える、その喜びをぜひ皆さんとご一緒に味わいたいと思いましたので、今回の礼拝では「ザカリヤの賛歌」を選ばせていただいた、ということだったのですね。

ザカリヤの賛歌の起源

 この「ザカリヤの賛歌」は、その名の通り、ザカリヤ(新共同訳以降は「ザカリア」)という人物が歌ったとされている歌ですね。洗礼者ヨハネ(イエス・キリストが公の場に姿を現す前に、人々の間で注目を受けていた宗教指導者)のお父さんです。そのザカリヤが、生まれてきた自分の息子のために歌ったとされる歌。なんとも感動的な話のように思えますけれども、実際には、本当にザカリヤがうたった歌ではない、というのが聖書学の世界では定説となっています。作者は不明なのですけれども、おそらく、洗礼者ヨハネの弟子たちによって歌われはじめたもの、というように考えられているのですね。自分たちのお師匠さんである洗礼者ヨハネ、彼は、9節以下のところにありますように、「神の憐れみ深いみ心によって‖ あけぼのの光がわたしたちに臨み 暗闇と死の陰にいる人を照らし‖ わたしたちの足を平和の道に導く」……そういう存在なのだと、弟子たちは洗礼者ヨハネのことを称えていたというわけですね。

ヴェロッキオ、ダ・ヴィンチ他,『キリストの洗礼』,1472-1475頃

あけぼのの光

 ここで注目していただきたいのは、9節にある「あけぼのの光」という言葉です。あけぼの……、つまり、東から太陽がのぼってきて、夜が明けてくる様子を表す言葉ですけれども、この「あけぼのの光」に関しては、これまで、聖書解釈の歴史においては、「イエス・キリスト」のことを指していると考えられてきました。聖書の中で、「太陽」と言えば、神、あるいはイエス・キリストなのだ、という単純な考えから、この「あけぼのの光」は、やがて現れるメシア、キリストを指しているものだと理解されてきたわけです。
 しかし、先ほど言いましたように、この歌が元来、洗礼者ヨハネの弟子たちがうたっていた歌だったとするならば……、彼らにとっては、その当時、自分たちのお師匠さんこそが「太陽」、「あけぼのの光」に他ならなかったわけですよね。「暗闇と死の陰にいた我々のことを照らし、道を歩ませてくださった、まさに『あけぼのの光』である、そのヨハネ先生の誕生を称える歌」……、それがこの歌だった。

イラストACより

 でも、ある時、彼らが敬愛してやまないそのヨハネ先生は、権力者の怒りを買い、処刑されてしまうことになります。お師匠さんを失った彼ら弟子たちのグループは、意気消沈しつつも、その後も細々と活動を続けていた――、そのようなことが、新約聖書の記述の中からもうかがえるのですけれども、そんな彼らの内、一部の人たちは、後にイエスのグループ(つまり、初期のキリスト教会)に合流するようになったようなのですね。
 新しい心の拠り所(つまり、復活のイエスという主人)を、彼らは再び手に入れることができた。そして、かつて自分たちのことを立ち上がらせてくれたお師匠さんは、実は、“この終着点”に辿り着くまで、「主のみ前に先立ち、その道を備え」てくださるお方だったのだと、自分たちのこれまでの歩みを“再解釈”したわけです。
 そのような、彼らヨハネグループの弟子たちによる、いわば“復活・よみがえり”の出来事、その事実というのは、残念ながら、聖書の中にはっきりと描かれているわけではありません。しかしそれでも、いくつかの伝承の断片を組み合わせることで、おぼろげながらも想像することができるようになります。一度絶望を経験したヨハネの弟子たちが、再び復活のイエスのもとで立ち上がることができた……その姿を、ですね。

おわりに

 もう何もかも終わりだ、おしまいだ、と希望を失ってしまうような夜さえも、あけぼのの光が差し込むことで、明るく照らされ、見えなくされていた希望が見えるようになる。我々人類の歴史、また、僕ら一人ひとりの人生というのは、まさにその繰り返しなのではないかと思わされます。束縛から解放へ、苦しみから癒やしへ、悲しみから喜びへ、暗闇から光へ、そして、死から命へ――。そのような、何度でも変えられる、変わっていける神の導きと恵みを信じることを、我々教会は常に大切にしています。そして、そんな神の御手による救いをうたった歌、それが、今日取り上げている「ザカリヤの賛歌」なのですね。
 それでは、今日のお話を締めくくるにあたって、最後に、皆さんとご一緒にもう一度、「ザカリヤの賛歌」を答唱して終わりたいと思います。祈祷書の23〜24頁です。

1 ほめたたえよ、主イスラエルの神を‖ 神はその民を訪れてこれを解放し
2 わたしたちのために力強い救いを‖ 僕ダビデの家に建てられた
3 昔から聖預言者の口をもって語られたように‖ わたしたちを敵から、また憎む者の手から救い
4 わたしたちの先祖を憐れみ‖ 聖なる契約を心に留められた
5 父祖アブラハムに誓われたとおり‖ わたしたちを敵の手から救い出し
6 生涯清く正しく‖ み前で恐れなく仕えさせてくださる
7 幼子よ、あなたはいと高き者の預言者と呼ばれる‖ 主のみ前に先立ち、その道を備え
8 罪の赦しによる救いを‖ その民に知らせる
9 神の憐れみ深いみ心によって‖ あけぼのの光がわたしたちに臨み
10 暗闇と死の陰にいる人を照らし‖ わたしたちの足を平和の道に導く
栄光は‖ 父と子と聖霊に
初めのように、今も‖ 世々に限りなく アーメン

「ザカリヤの賛歌」(『日本聖公会祈祷書』23〜24頁より)

 ……それでは、礼拝を続けてまいりましょう。


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