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神の御顔の光 〜テカってるわけじゃないよ〜

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詩編・聖書日課・特祷

2023年7月2日(日)の詩編・聖書日課
 旧 約:イザヤ書2章10~17節
 詩 編:89編1~4節、15~18節
 使徒書:ローマの信徒への手紙6章3~11節
 福音書:マタイによる福音書10章34~42節
特祷
神よ、あなたは天地万物をみ摂理のうちに治めておられます。どうか、わたしたちを害する肉の行いを聖霊によって除き、み心に従って良い行いの実を結ぶことができるようにしてください。主イエス・キリストによってお願いいたします。アーメン

下記のpdfファイルをダウンロードしていただくと、詩編・特祷・聖書日課の全文をお読みいただけます。なお、このファイルは「日本聖公会京都教区 ほっこり宣教プロジェクト資料編」さんが提供しているものをモデルに自作しています。

はじめに

 どうも皆さん「いつくしみ!」中部教区・信徒宣教者の柳川真太朗です。どうぞよろしくお願いいたします。
 今年の4月に、西原主教様より信徒宣教者として任命していただいて早3ヶ月が経ちましたけれども、本日ついに、このマタイ教会の聖餐式でお話をさせていただくことになりました!(パチパチ)
 先週一週間、がんばって準備してきました。「いや~しんちゃん、今日のお話良かったわー」「柳川さん、次回も期待してるよ」って言っていただけるようなお話を用意してこれた……はずです!知らんけど!自信は無いけど!
 ……というわけで皆さん、しばらくの間、どうぞお付き合いください。

「み顔の光」って何?

 さて、早速ですが皆さん、お手元の『祈祷書』をご一緒にお開きいただけますでしょうか。あっ、ちなみに最初なので一応ご説明しておきますと……、僕のお話は、その日の聖書の箇所を頻繁に行ったり来たりする、まさにプロテスタント仕込みのスタイルですので、『祈祷書』とか『聖書日課』の冊子を(横とか前の背もたれのところにポイッてしておくんじゃなくて)その都度必要な箇所をお開きいただきながらお聴きいただければと思います。そして何より「聴いていただく」ではなくて、むしろ「聴かせにいく」勢いで喋りますんで、圧倒されないように、踏ん張ってお聴きください。
 それでは、改めて『祈祷書』をお取りいただきまして、まずは本日の“詩編”の箇所をお開きください。『祈祷書』の812頁、詩編第89編です。
 その中の15節の言葉をご覧いただけますでしょうか。89:15、このように書かれています。「あなたをたたえることを知る民は幸せ∥ 主よ、彼らはみ顔の光に照らされてみ前を歩む」(詩編89:15)
 ここに「み顔の光に照らされてみ前を歩む」とあります。「み顔の光」……?皆さんもそうだと思うんですけれども、こういうような、いわゆるキリスト教の業界用語的な言葉って、意外と分かっているようで分かってないっていうことが(僕もそうなんですが)少なくないんじゃないかと思うんですよね。
 この「み顔の光」なんていう言葉は特にそうです。聖書の中とか聖歌の歌詞とかでたまに出てくる言葉ですけれども、よぉ考えてみたら、「なんやねん、『み顔の光』って」っちゅう話なんですよ。顔が……光る?なんやそれ?って。
 僕も実は、しょっちゅう顔が光っています。まぁ、脂でテカってるだけなんですけどね。なので、僕はお出かけするときは必ずフェイスシート(あぶらとり紙)を持ち歩いておりまして、顔がテカってきたなぁって思ったら拭くようにしています。ほな、神さまも顔がテカりやすいお方なのか!?まぁね、こんな人間の世界を常に見てらっしゃると、そりゃあストレスも溜まって、顔もおテカリになられるよなぁ……とは思いますけれども、多分そういう意味じゃないですよね。

「アロンの祝福」

 じゃあ、「み顔の光」って何なんでしょうか。どういう意味なんでしょう。その答えを探るために、皆さん、今度は『祈祷書』の315頁をお開きいただけますでしょうか。
 これはですね、聖婚式(結婚式)で使われる箇所なんですけれども、ここには、315頁の下の二行のところから次の316頁にかけて、結婚する二人を祝福するための祈りの言葉が書かれています。「主があなた(がた)を祝福し、あなた(がた)を守られるように。主がみ顔をもってあなた(がた)を照らし、あなた(がた)を恵まれるように。主がみ顔をあなた(がた)に向け、あなた(がた)に平安を賜るように。」
 この中に「主がみ顔をもってあなた(がた)を照らし」という文言がありますよね。「光」っていう言葉こそ使われてはいないものの、主なる神はその「み顔」をもって、我々人間のことを(ここでは結婚する二人のことを)光で照らしてくださるのだということが、ここには書かれているわけです。
 この祝福の言葉の、最後のところ……、小さい字で「民数(記)6:24-26」と書かれていますけれども、これは、旧約聖書の「民数記」という箇所から引用してきた言葉だよ、ということを表しています。その民数記6:24-26の箇所では、あの預言者モーセが登場しているわけですけれども、主なる神がモーセを通じて、祭司であるアロン、またその子どもたちにこの言葉を授けて、そして、この言葉をもってイスラエルの人々を祝福しなさいとアロンたちに命じたとされています。それゆえに、この祝福の言葉は祭司アロンの名前を取って「アロンの祝福」というようにも呼ばれているんですね。我々聖公会の教会では、あんまり使われる機会がないみたいなんですが、ユダヤ教においては、古くから特別な祈りの言葉として重んじられてきておりますし、また、キリスト教のプロテスタント教会では、宗教改革者であるマルティン・ルターがこの祝福の言葉を礼拝の中に採用して以降、多くの教会で、礼拝の最後の祈りとして毎回牧師さんによって唱えられています。ですから、プロテスタントの信者さんたちにとっては結構聞く機会の多い祝福の言葉なんですね。
 さて、そのように「礼拝学」的に特別な地位が与えられている、この「アロンの祝福」の言葉なんですが……。実はこれ、「聖書学」的にも、また「考古学」的にも、非常に重要なテクストなんですね。最近、あの『インディ・ジョーンズ』の最新作が公開されたそうですからね、ちょっと考古学的な話をしてみようかなと思うんですけれども……。

 いまから40年ほど前の1979年に、エルサレムの周辺から“ある巻物”が発掘されました。その巻物は、99%「銀」で造られていたので、パピルスとか羊皮紙などのように、時間の経過とともにバラバラに朽ちてしまわずに済んでいたわけなんですけれども、ただ一つ、難点がありました。その巻物……びっくりするくらい小さかったんですね。

 その銀の巻物を特殊な方法でそ~っとそ~っと開いてみますと、(皆さん“小指”出してみてください)この小指くらいのサイズしかなかったんです。幅1cm、長さ4cm。ちっちゃ!めっちゃ小さい巻物!これが、クルクルっと巻かれて、いろんな物が付着している状態で、発掘現場の土を(こうやって)ふるいにかけている時に偶然発見されたそうなんです。そんなん、よぉ発見したなぁって思いますね。
 そんな小さい巻物に、これまたちっちゃい字で何やら文章が刻まれていたわけなんですけれども、それを専門家が解読してみたところ、なんと、この民数記6:24-26に非常によく似た文章が書かれていることが分かった!ということなんですね。しかも、その巻物が造られた年代を調べてみますと、驚くことに、どうやら紀元前7世紀ごろのものだということか判明したんです。
 紀元前6世紀の「バビロン捕囚」よりも前。ですから、民数記などの書物が書かれるよりもずっとずっと前のものということになります。その時代、いま我々が信じている「主なる神」は、まだ唯一神としてではなくて、たくさんの神々がいる中の一人としてしか認識されていなかった。そんな時代です。しかし、そのような時代からすでに、この祝福の言葉は、古代の人々の間で大切にされてきた!ということが、その銀の巻物の発見によって明らかになったわけなんですね。おそらくは、何か“お守り”のようなものとして使われていたのではないかと考えられています。

Ketef Hinnom scrolls(KH2)※Wikipediaより

 ……皆さん、これ、凄くないですか?こういう話、ワクワクしません?『インディ・ジョーンズ』観に行きたくなりません?……僕はめっちゃワクワクするんですけど、えっ、もしかして僕だけですかね。
 もし皆さんもワクワクしてくださっているなら、今後もちょいちょい挟んでいきたいと思うんですけど、「いや~、別に興味無いわぁ」ってことなら、止めとこうと思います(笑)。

神の御顔の光と陰

 さて、そのようなエピソードを持つ、この「アロンの祝福」と呼ばれる民数記6:24-26、あるいは、今日の詩編の箇所である89:15にも書かれていましたように、聖書の時代の人々は基本的に「神の御顔に照らされる」ということを“幸せなこと・喜び”として理解してきたようです。このような信仰はおそらく、ユダヤ教以前の、もっと原始的な、お日様の光で命が育まれるっていう、太陽信仰のようなものに由来しているのだと思われるわけですけれども……、しかし、なんです。彼らイスラエルの人々の間には、それとは正反対の理解、すなわち「逆に、神の御顔に照らされるとマズイ」っていう考え方もあったようなんですね。
 そのような考え方に基づいて書かれている箇所の一つが、今日の旧約聖書のテクストとして選ばれているイザヤ書2:10です(聖書日課の192頁)。次のように書かれています。「岩の間に入り、塵の中に隠れよ/主の恐るべき御顔と、威光の輝きとを避けて。」
 ここでは、主なる神の御顔、そしてその光が、人間にとって恐ろしいものとして描かれています。「岩の間に入り、塵の中に隠れよ」というのは、もちろん「隠れたら何とかなる」ということではなくて、「隠れられるものなら隠れてみるが良い」というような、反語的な意味です。つまり「主なる神の御顔の光からは誰も逃れることができないぞ」っていう裁きの宣告の言葉なんですね。見えているものも隠されているものも、全てを照らして明らかにする……それが「神の御顔の光」だとイザヤ書は述べているわけです。

すべてを見逃さない神の目

 先週の礼拝に出席されていた皆さんは、先週の「マタイによる福音書」の箇所にこれと同じような言葉が書かれていたのを、きっと、覚えていらっしゃると思います。……え?そんなの覚えてるわけない?じゃあ見てみましょう。聖書日課の191頁です。マタイ福音書10:26を読んでみます。「人々を恐れてはならない。覆われているもので現されないものはなく、隠されているもので知られずに済むものはないからである。」
 隠された悪事も悪い思いも、神の目にはすべてが明らかであるという、そのようなメッセージが、これら二つの箇所では共通して述べられているわけなんですね。すべてが神に見られている……っていうように言われると、我々にとっては少し怖いことのように感じられるのではないかと思います。別に皆さんもね、普段から何か悪いことしているわけでは無いでしょうけれども、それでもですね、たとえば、車を運転していてパトカーとすれ違ったら、なんかよぉ分からんけどドキドキしちゃう。それと同じように、「全~部、神さまに見られている」と言われると、何となく心がモヤモヤする。そんなもんだと思います。
 ただし、全てが神さまに見られているというのは、決してネガティヴなことだけではないということを、今朝の福音書の箇所は教えてくれています。194頁、マタイ福音書10:42。「はっきり言っておく。わたしの弟子だという理由で、この小さな者の一人に、冷たい水一杯でも飲ませてくれる人は、必ずその報いを受ける。」
 悪いこととか、あまり望ましいとは思われないようなことだけではなく、良い部分も神さまは見てくださっている。あるいは、誰かに評価してもらうほどでもないような些細なこと、誰にも知られることのない心の中の温かい思いとか、無意識のうちにやっていた善い行い。そのような、意図的に隠しているわけではなく、自然と人目から隠されているようなこともまた、神さまは全部見てくださっている。そして「あなたは素晴らしい」と喜んでくださっている。そう考えますと、「神の目にはすべてが明らか」っていうのも、悪くないんじゃないかなって思います。

おわりに

 神さまはどんなに小さなことでも見逃さない。悪いことも良いことも。特に、僕らの良い部分、神さまの御目に喜ばしいと思われるようなことを、まるで、先ほどご紹介した(こんなちっちゃな)銀の巻物が発見された時と同じように、御顔の光で照らし出して「えぇやん」って言ってくださる。そんな神さまに信頼して、今日からの一週間も、胸を張って、ご一緒に歩んでいければと思います。
「主があなた(がた)を祝福し、あなた(がた)を守られるように。主がみ顔をもってあなた(がた)を照らし、あなた(がた)を恵まれるように。主がみ顔をあなた(がた)に向け、あなた(がた)に平安を賜るように。」

 ……それでは、礼拝を続けてまいりましょう。

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