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神のパーティーに招かれるピーポー

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詩編・聖書日課

2023年6月11日(日)の詩編・聖書日課
 使徒言行録:2章37〜47節
 詩編:133編1〜3節
 福音書:ルカによる福音書14章15〜24節

はじめに

 皆さん、おはようございます。さて、突然ですが、皆さんは「パーティーピーポー」という言葉をご存知でしょうか。いわゆる「若者言葉」ですね。ギャルが使う言葉「ギャル語」としても知られています。Party People……。Peopleというのは日本語発音すると「ピープル」、つまり「人々」という意味ですね。「パーティー」の「人々」、すなわち「パーティー好きな人々」のことを「パーティーピーポー」と言います。
 この言葉が一般的に使われ始めた当初は、それこそ、クラブとか音楽ライブとかで、お酒を飲みながらワイワイ騒ぐ人たちのことを「パーティーピーポー」と呼んでいたらしいんですけれども、最近では、もう少し幅広い意味になってきているみたいなんですね。お酒とか、大音量の音楽が伴わないような場でも集まって楽しめる、そういう社交的な若者たちのことを「パーティーピーポー」、略して「パリピ」なんていうように呼ぶようになっているわけです。
 いわゆる「パリピ」と呼ばれるような人たちって、羨ましいなぁって個人的には思うんですよね。「パリピ」な人たちって、ノリが良くて、フレンドリーな性格の人たちが多いので、友達とか知り合いじゃない人たちとも、同じ空間を共にできる、同じ時を過ごしているというだけで仲良くなれたりするんですよね。そういうのって、一般人にとっては普通、ハードルの高い、勇気のいることだと思うんです。でも、「パリピ」な人たちは、持ち前のノリの良さとかコミュニケーション能力を使って、いろんな人たちと一緒にワイワイガヤガヤ楽しめる……。それって、凄いよね、羨ましいことだよね。良いなぁ、憧れるなぁって僕は思うんですよね。まぁ、基本的に彼ら「パリピ」な人たちというのは、どんちゃん騒ぎをする人たちなので、周囲から煙たがられることも少なくないみたいですけれども、しかし内実はどうであれ、心の壁を取っ払って、様々な人たちと一つになれるっていうのは、とても尊いことなんじゃないかなって思うわけです。

大宴会のたとえ

 さて、それではそろそろ聖書のお話に移りましょう。今回の説教題「神のパーティーに招かれるピーポー」(略して「神パリピ」)ですけれども、これは、本日の福音書の箇所として選ばれておりました、ルカによる福音書14章15〜24節の内容をもとに付けてまいりました。
 ある家の主人が、盛大な宴会(パーティ)を開こうとして、大勢の人を招いた(16節)というところから、イエスのこのたとえ話は始まっています。
 開宴時間になって、主人の僕(しもべ)が招待客を呼びに行った。すると、どういうわけか、人々は皆、次々にあれやこれやと理由を述べて、「申し訳ないんですが、欠席させていただきます」というように断っていったということなんですね。
 その知らせを聞いた家の主人は激怒します。そして21節の後半、「急いで町の広場や路地へ出て行き、貧しい人、体の不自由な人、目の見えない人、足の不自由な人をここに連れて来なさい。」……そのように僕(しもべ)に命じたんですね。
 僕(しもべ)は言われた通り、貧しい人や体の不自由な人たちを連れてきました。でも、まだ席が空いています。すると家の主人はまた僕(しもべ)に命じます。「通りや小道に出て行き、無理にでも人々を連れて来て、この家をいっぱいにしてくれ。」(23節)
 このように、主人が開催した大宴会の参加者は、蓋を開けてみれば、最初に声をかけられていた招待客たちではなく、主人が一度も会ったことがないような、本来は招かれざる人々、種々雑多な人たちによって取って代わられることになってしまった……というような、そういう内容のお話になっているんですね。

このたとえ話をどう読むか

 イエスはこのたとえ話をどのような意味で語ったのか。ある解説書では、この箇所の意味について次のように述べられていました。
 「このたとえは、明らかに、神の国の良い知らせの、イスラエルの狭い範囲から異邦人への拡大を扱っている。」(A.E.マクグラス,『旧約新約聖書ガイド』,教文館,2018)
 確かにキリスト教においては、最初に神の招きを受けていたユダヤ人たちが、イエスを処刑したことで、その招きを事実上拒否してしまい、彼らに代わって、非ユダヤ人、つまり異邦人たちがイエス・キリストの福音を受け入れ、信者となっていった、という理解があります。ですから、この箇所に関しては、今ご紹介したように「ユダヤ、イスラエルという狭い領域から、本来“神の民”ではなかった人々の住む異邦世界へと、神の救いの御手が広げられていくことを暗示するお話なのだ」と、そのように解釈するのは、まぁキリスト教的には、全く問題ない読み方であるわけです。

宴会の誘いを断った人々

 しかし、それにしては、このお話……、どうも引っかかるところが多すぎるような感じがするんですね。
 このたとえ話の中で、宴会を催した家の主人は、招待した客が次々にキャンセルしていったことにかなり腹を立てています。「せっかく声をかけてやったのに誰も来ないとは、一体どういうつもりだ!」と激怒するわけですね。
 ただ、誘いを断った人たちの言い分を読んでみますと(18節以下)、彼らは大した理由も無いのにキャンセルしたわけではなさそうなんですよね。「畑を買ったので、見に行かねばなりません。」「牛を二頭ずつ五組買ったので、それを調べに行くところです。」
 こんな風に彼らは主人の僕に伝えて、誘いを断ったわけなんです。畑も牛も、どちらも生活に必要なものですよね。しかも、どっちも結構“高額な買い物”だっただろうと思われます。彼らにとっては大事なものだったわけですよ。豪華なパーティーという一過性の楽しみよりも、畑や牛のほうが、優先順位が上だと彼らは考えた。だから、パーティーの誘いを断った。それだけの話なんですよね。
 それに、続く20節を見てみますと、「これはもうさすがに仕方がないでしょ」と言いたくなるような理由が書かれています。「妻を迎えたばかりなので、行くことができません。」結婚したばかりだから、妻を放ったらかしにして宴会なんぞ行ってられない。……ごもっともです。行っちゃダメです。大変なことになります。多分これ、今日の聖書の言葉の中で一番重要な言葉じゃないかと思います。
 ……とまぁ、このように考えてみますと、誘いを断られた主人にも同情するところはあるわけですが、それにしてもこの主人、ちょっと怒りすぎとちゃうか?とも思えてくるんですよね。金持ちやねんからさぁ、もっと寛容になりなはれや、と言いたくなっちゃいます。

神は差別主義者か

 きっと、この家の主人はプライドを傷つけられたと感じたんでしょうね。「せっかく大勢の客を招いて、盛大なパーティーを開いてやろうと思ったのに、どいつもこいつも断りやがるとは……なんたる侮辱!庶民のくせにけしからん!」
 まぁ、そんなセリフが書かれているわけではないんですけれども、この主人がそのように、一般庶民である人たちを“見下している”ということは、実は次の彼のセリフが如実に表しているんですね。すなわち彼は、キャンセルしやがった招待客の代わりに「貧しい人、体の不自由な人、目の見えない人、足の不自由な人」を連れて来い!と、僕(しもべ)に伝えているんです。
 これ、ゾッとする一言だと僕は思うんですね。何故ならこの一言は、この主人が、宴会を計画した当初は、貧しい人たちや体の不自由な人たちを招待する気が無かった!ということを意味しているからです。
 この箇所の従来の解釈によれば、家の主人は「神様」、最初の招待客は「(イスラエルの子孫である)ユダヤ人」、そして、その後に連れてこられたのは「(異邦人を含む)キリスト教徒」をそれぞれ表しているはずでした。でも、そのような読み方を採用するならば、神様というお方は、相当酷い“差別主義者”ということになってしまうのではないでしょうか。貧しくない人、身体に障害が無い人。そのような人たちだけに声をかけて神のパーティーに招こうとしていた。でもみんな来なくなったから、“仕方なく”貧しい人や体の不自由な人たちを招くことにした。
 もしそうだとしたら、たとえそのパーティーの主催者が神様なのだとしても、僕なら行きたくないですね。こっちから願い下げです。そしてもしかすると……、このお話の中で当初パーティーに招かれていた人たち。彼らもまた、そんな主人のことを尊敬していなかったのかもしれない。だから、キャンセルした。用事があったから行けなかったのではなく、最初から行きたくなかったのではないか。そんな風に読むこともできるんじゃないかと思うんですね。

神の国のたとえ話ではない?

 では、ここで改めて考えてみたいと思います。このお話は何の話なのか。イエスはこの話をどういう意図で語ったのか。
 この箇所を注意深く読んでみますと、二つの重要なことが見えてきます。
 一つは、このお話の総括をイエスがしていないということ。イエスは、何かのたとえ話を語り終えた時に、そのたとえ話の締めくくりを付け加えることがあります。「このように……である」とか「だからあなたがたも……しなさい」という感じでですね。でも、この箇所の最後には、そのような締めの言葉は何も書かれていません。だから、イエスがこのたとえ話を語ることで何を聴衆に伝えたかったのか、厳密には分からないんですよね。
 そして、もう一つ重要なことがあります。それは、そもそもこのたとえ話は、何のたとえ話なのか、明示されていないことです。「神の国は次のようにたとえられる」というように、何のたとえ話なのかを最初に説明するのが、イエスの定番パターンであるわけですけれども、この箇所に関しては、そういう導入文が見当たりません。その場にいた人が最初に「神の国で食事をする人は、なんと幸いなことでしょう」(15節)と言ってるだけで、それに対してイエスが「神の国はこういうものである」という感じでたとえ話を語り始めたわけではないんですね。ですから、このたとえ話、そのテーマ自体が、実は不明確なんです。何の話か分かんないんですよね。
 もしかすると、イエスは「神の国はこういうものだ」という意図で語ったのではなく、「こんな神の国は嫌だろ?」という思いを人々に抱かせるために、あえてこの一連のたとえ話を語り聞かせたのではないか。実は僕はそのように解釈しているんですけれども、それなら納得できるんじゃないかと思うんです。つまり、“この世的すぎる神の国”。貧しくない人、身体に障害が無い人……そんな人たちが優先的に招かれる神のパーティー。そして招待を辞退したら激怒する神。堂々と差別する神。権力を振りかざす神。誰からも尊敬されていない神。そんなの嫌だろ?……と、そのような思いをあえて人々に抱かせるために、イエスはこの話を語ったのではないか。僕はそんな風にこの箇所を理解しているんですね。皆さんはどう思われるでしょうか。

神のパーティーに招かれるピーポー

 「神のパーティーに招かれるピーポー」というふざけたタイトルとは打って変わって、めっちゃ真面目な話をしてきました。そうなんです、僕こう見えても、根は真面目なんです。
 では最後に、じゃあ本当に「神のパーティーに招かれるピーポー」とはどんな人たちなのか、どんな人たちであるべきか、どんな人たちであってほしいか、というのをお話しさせていただいて今日の奨励を終わりたいと思います。
 今朝は、このルカ福音書のほかに、使徒言行録2章37節以下、そして、詩編133編という二つの箇所も選ばれています。この二つの箇所には共通したテーマがあります。それは「皆が一つであることは素晴らしいことだ」ということです。
 でも「一つである」というのは、決して全ての人が、同じ考え、価値観を共有するということではありません。そうではなく、多種多様、ありとあらゆる人たちが、ただ同じ空間、同じ世界に“いる”ということ自体が「素晴らしい」「なんという恵み、なんという喜び」というように、これらの箇所は伝えてくれているんですね。
 使徒言行録2章の39節、読んでみます。「この約束[つまり聖霊を受けるという約束]は、あなたがたにも、あなたがたの子供にも、遠くにいるすべての人にも、つまり、わたしたちの神である主が招いてくださる者ならだれにでも、与えられているものなのです。」
 「遠くにいるすべての人」というのが何を指しているのか。聖書学者らの間でも議論がなされている言葉です。異邦人の世界に住むユダヤ人たちのことを指すのか、それとも異邦人を含むあらゆる人たちのことを指しているのか。この言葉だけでは判別できません。
 分からないなら、逆転の発想です。すなわち、神の約束を受けているのは「あなたがた“だけ”」ではないんですよ、と。あなたがたの“子どもたち”(子孫たち)もその対象だし、あなたがたの全く知らない、あなたがたが行ったこともない土地の人たちですら、神は聖霊を与えてくださるのだと、そのように読んでも良いのではないかと思うんですね。つまり、神の招きの範囲を人間が勝手に限定するなということです。
 また、詩編133編。「見よ、兄弟が共に座っている。なんという恵み、なんという喜び。」
 実は、この日本語訳、僕は嫌いなんです。まず「座っている」と訳されているヘブライ語のישׁב(yashab)という動詞。確かにこの動詞は「座る」という意味を持っている言葉なんですが、そこから転じて「ある場所に滞在する・住む・生きる・そこにいる」というように訳されることの方が多いんですね。
 この箇所を翻訳した人はおそらく、礼拝とか集会などを想定して「座っている」と訳したんでしょうけれども、それだとあまりにもシチュエーションを限定し過ぎですね。かつての口語訳聖書のような「兄弟が和合して共におる(共にいる)」という訳のほうが、よっぽど“幅広い意味”に捉えることができるので良いと思います。
 それともう一つ、注目したい言葉があります。それは「兄弟」という言葉。この「兄弟」と訳されている言葉は、実は“複数形”なんです。つまり「兄弟たち」ということになります。そして、ここが重要なポイントなんですけれども、ヘブライ語で「兄弟たち」というように“複数形”になった時には、その中には何と「女性が含まれる可能性がある」ということなんですね。男性だけでなく、女性も含めて「兄弟たち」と呼んでいる可能性がある!というわけなんです。
 口語訳聖書ではなく、その前の文語訳聖書では次のように訳されていました。「觀(み)よ、はらから相睦(あいむつみ)てともにをるは、いかに善(よく)いかに樂(たのし)きかな」
 美しい文章ですねぇ。今でも文語訳聖書が愛され続けている理由がよく分かる美しさです。文語訳聖書においては、「兄弟」という言葉が「はらから」と訳されています。「はらから」というのは、男性も女性も区別しない、いわば「兄弟姉妹」「同胞」という意味ですね。僕はこの箇所に関しては、性別の区別はあってはならないと考えています。ですので、「はらから」という訳がピッタリだと思うんですね。
 性別だけではない。身分の違いも、国籍も、言語も、宗教も、価値観の違いも。そういったあらゆる隔ての壁を越えて、様々な人たちが「ともにをる」「一緒に住んでいる」「一緒に生きている」。そのような喜びを歌った詩編なのではないか。そのように僕はこの詩編を解釈しています。
 そして、そのような世界こそが真の神の宴会「神のパーティー」なのであり、そして、この世界に生きるすべての人が「神のパーティーに招かれるピーポー」なのだ。そう考えているわけなんですね。

おわりに

 神は、イエスのたとえ話に出てきた主人のように、えこひいきしたり、差別をしたりするようなお方ではない。そういうことをするのは、我々人間です。神は、全ての人を招いておられる。しかしそれを妨げているのは、僕ら人間なのです。
 先週、残念なニュースが報じられていました。入管法改正案可決、成立。これにより、日本という国は、助けを求めてやってくる外国人の方々を更に苦しめる国になってしまったということになります。どうすることもできなかった自分の無力さを嘆くとともに、難民申請をしておられる方々に対して申し訳ない気持ちでいっぱいです。
 日本は神のパーティーから遠のいた……。そのように言っても良いと思います。そのような混沌とした社会の中にあって、少なくとも我々キリスト者は、キリストの光を受ける我々は、暗闇を明るく照らす存在でありたいと願います。そして、僕らクリスチャンが、神にお仕えする僕(しもべ)として、あらゆる人たちを神のパーティーへと招く働きを担っていければと思います。
 それではお祈りしましょう。

お祈り

 神さま、私たちをどうか、正しい道を歩む者としてください。
 人と人との間には多くの壁が存在しています。私たち人間は弱く、それらの壁を取り除くことはできません。ですがどうか、私たちが神の国(神のパーティー)のビジョンを思い描きつつ、隔ての壁を越えて、あらゆる人たちと共に生きていることを喜びとして互いに讃えあうことができるようにしてください。
 誰もがあなたに愛されている、誰もがあなたによって招かれているということを、私たちは固く信じたいと願います。どうかその信仰を、この世にあって私たちが体現できるように、私たちに勇気と力をお与えください。
 主イエス・キリストによってお願いいたします。アーメン。

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