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キリスト教界を立て直す唯一の方法教えます

 日本聖公会神戸教区神学塾さんが公開しておられる「これからの宣教を考える」①〜④を視聴しました。

 高齢化やマンパワー不足、お金のことなども含めて、現代の諸教会が抱える問題を先生方が率直に語ってくださっており、教会関係者だけでなく教会に繋がっていない方々にも、日本の教会がいかに深刻な状況であるかが伝わる内容だなと感じました。特に、第3回の中原先生の語っておられた「お金をかけない宣教」は、本当にこれからの教会のキーワードにしていかなければならないと思います。

人も金も無い、そんなフェーズに教会は突入しています(イラストACより)

 さて、その中で一つ、どうしても僕にとって“気になったこと”があったので、皆さんにも考えていただきたい。それは(4名の先生方だけでなく、他の様々な教会の牧師さんたちも皆同じだと思いますが)、教会の構成員が「聖職」と「信徒」しか存在しない、という前提でしか考えられていないことです。教会に足を運ぶ方々の中には、聖職・信徒(洗礼・堅信を受けた者)だけでなく「非信者」の方々もおられますよね。その事実が、どうも見落とされているような気がします。

非信者の人は少数派だと思いますが、確かに教会の構成員なのです(イラストACより)

 個人的なことを語らせていただきますと、僕のミッションは、「非信者の方々も、信者と変わらず(受洗をしなければならないようなプレッシャーを受けることもなく)教会の構成員としてその存在を尊重される環境を整えていくこと」であると考えています。これは、日本基督教団の教師をしている時から、日本聖公会に移った今に至るまで、一切揺るぐことなく持ち続けている使命観です。

 かつては、「洗礼」こそ神に対する罪を(文字通り)拭い去ることのできる唯一の方法だと信じられていました。けれども、“洗礼が救いの条件”という古来のまやかしは、現代の教会によって退けられていると言えます。つまり洗礼論は刷新されたはずなのです。
 しかし、それにもかかわらず、どういうわけか教会は、非信者の方々が自分たちの教会に定着しそうになると、教会の仲間になるためには洗礼が必要だと言わんばかりに、その方々に受洗を勧める傾向があります。これは、教会が「洗礼」に関して未だ無理解であり、“矛盾”を抱えてしまっていると言わざるを得ません。

もちろん非信者の方々の中には求道者もいらっしゃるでしょうが、受洗の意志がない人も多いはずです(イラストACより)

 僕は、そのような矛盾した状況を解消し、洗礼を受けているか否かを問わず、(本当の意味で!)誰もが安心して過ごせる教会を作っていきたいのです。そして、それこそが実は、「お金のかからない宣教」なのであり、キリスト教界を維持していく唯一の方法だと僕は考えています。

 ただし、プロテスタント諸教会と違って、聖公会の主な礼拝は「聖餐式」です。そのため、その中ではどうしても、パンとぶどう酒を巡って、信者と非信者を分けなければなりません(僕の聖餐論を語るのはここでは避けておこうと思います)。
 ですが、それならば……。いくつかの教会が実践しているように、もしも非信者の方々が多い教会なら、誰もが主の食卓の恵みに与ることのできる「愛餐式」あるいは「み言葉の礼拝」を積極的に導入し、それと区別する形で、信者のためだけの礼拝(聖餐式)を開催すればよいのです。

愛餐式(アガペー)は原始キリスト教会に由来する大切な場でしたが、聖餐式の発展によって忘れられてしまうようになりました(イラストACより)

 「日曜日10:30〜」の礼拝こそが大事だとは、どこにも定められていないはずですから、“聖餐式こそ聖公会の中心である”という考えは当然そのまま大切にしつつ、以下のような流れで日曜日の礼拝を行えばよいのではないでしょうか。

◆09:00〜09:30 聖餐式(説教無し)
  →パンとぶどう酒を受けたい信者向け
  ※非信者がおられる場合、希望者には祝福
◆10:30〜11:30 “愛餐式”(説教あり)
  →教会に集うすべての方々のため

 以上の案は、聖公会だけでなく、他教派の教会でも充分に実践可能だと思います。何度も強調しますが、従来の聖餐論をひっくり返す必要もなく、また、ほとんどお金をかけることもなく、かつ持続可能な、より多くの人たちを教会の仲間として迎え入れることができる唯一の方法です。

 僕は(まだ?)聖職ではないので、実際にこのミッションに取り組んでいくのは少し先の話になるかもしれませんが、皆さんなら、今からでも、実践に向けて本格的に学びと議論を始めていただけるはずです。

 それでは、教会の将来が守られるよう祈りつつ、「いつくしみ!」

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